1952(昭和27)年3月、高安は「関西アララギ」の編集者となるが、この時、中島栄一も新たに選者になった。選者を引き受けた経緯について中島は
高安君が私のため「陽のあたる場所」を用意して呉れたこと、それに対する感激の思いもこめて。 「関西アララギ」1954年1月号と記している。もっとも、この文章は中島が選者を辞するに当って書かれたものであり、以降、二人は別々の道を歩いていくことになった。
中島と高安はともに大阪と縁が深い。しかし、生まれ育った環境は大きく違っている。通天閣の近くで育ち尋常小学校しか出ていない中島と、船場の道修町の大病院に生まれ京都帝国大学を卒業した高安。
中島は高安のことを「高安君」と呼んでいるが、高安は「中島さん」と呼んでいたらしい。高安が亡くなった時の追悼文に、中島は
(…)世俗的名声を得たのちも終始かはることなく、私に対しても、ていねいにさんづけで呼ばれたこと自体、育ちのよさをあらはして余りあるとおもふ。と書いている。この文章はそのまま素直に受け取っていいのだろうか。けっこう含みがあるような気がする。ここに含まれた微妙で複雑な感情こそが、中島と高安の関係を象徴しているようにも思うのだ。
「短歌新聞」1984年8月号
本来出会うこともなかったはずの二人が、短歌を通じて出会い、戦前から戦後にかけての苦しい時代のなかで友情を育んだ。しかし、世の中が平和で豊かになるにつれて、もともと資質の違った二人はそれぞれ別の道を歩むようになったのではないか。そんなふうに感じるのである。