中島は1909(明治42)年生まれで高安の4つ上である。生まれも育ちも正反対と言っていい二人だが、なぜか気の合う部分があったらしい。
1950(昭和25)年に書かれた高安の第一歌集『Vorfruhling』の附記の中に、次のような一文がある。
(…)今は昔、堂島川のかき船で中島栄一君が、「君の歌がわかるやうな人は今の日本にはあんまりあらへんのや」と言つた時、我が意を得たと涙ぐむほどに有難く感じたこともあつた次第である。中島に励まされ、厚い信頼を寄せている高安の姿である。
翌1951年、中島の三男栄造が疫痢で亡くなる。3歳であった。
冷えゆく汝(なれ)の小さき足撫でてわが居たりけりたどき知らねばこの一連のすぐ後に、次の一首がある。
『花がたみ』
腕に股(もも)に注射の針のあと見れば涙あふる小さき屍(かばね)清めて
柩いま舁(か)き出(いだ)さるる玄関に汝(なれ)があそびしスケートがみゆ
こころ温(あたた)まる高安夫妻よりのハガキ生きゆくことは苦しかりとも同じように3歳の息子を疫痢で亡くしたことのある高安には、中島の悲しみが痛いほどにわかったのだろう。二人はこうした信頼によって結ばれていたのである。
今すぐちゃんと思い出せないんですけど、
「真実」の中の、来光寺での歌会の時の歌に、
「自分は死んだ子の遺骨の前を通って歌会に行く」
といった趣旨の歌があるのを思い出しました。
わが友の寺に預けし子の遺骨土に埋めず過ぎし三年か
子の墓石いまだ建たざるを思へども今日もこの寺に歌あげつらふ
詣で来しことなき我や歌会果てて子の遺骨ある部屋を横ぎる
ありがとうございます。
ちゃんと原典にあたってコメントすればよかったです。
すいませんでした。
前に、北摂歌会で『真実』の一首評をしたときに
詣で来しことなき我や歌会果てて子の遺骨ある部屋を横ぎる
を取りあげたのを思い出しました。
とても印象深い歌だったので。