ある筈の島を霧笛にさぐりあててわが船はまさに吼えて吼えたる歌集名は「かいがく」と読む。昭和16年7月4日〜14日、北千島視察団の一員として千島列島を訪れた際の約300首が収められている。
島山は雪まぶれにて獅子ヶ嶽仙人ヶ嶽赤嶽海よりそびゆ
直土(ひたつち)に高山植物の咲きたるを人に聞きつつたのしきわれは
幾万の鮭が完全に一個づつの罐詰となりて出で来るは見つ
わだつみに直ちにそそぐ滝つせは雪のいまだも白き山より
鰈らは紋様を海底(うなぞこ)にうち散らしおびただしくも寂(しづ)けきかなや
けさの寒さ格別にして手袋のなき裸手を息にあたたむ
北千島に乾ける海霧のありと聞けど帆綱の雫しばしばぬらす
わが国の北のはたての島にして生ける鯡の刺身をくらふ
剖(さ)きに剖(さ)く鯨の肉塊内部(なか)ふかくうちこまれたる銛(もり)を現はす
温禰古丹(おんねこたん)海峡、擂鉢湾、幌筵島(ぱらむしるとう)、柏原湾、幌莚(ぱらむしる)水道、占守島(しゅむしゅとう)、阿頼戸島(あらいどとう)、与助港、択捉島(えとろふとう)、沙那港など、今では聞き慣れない地名が多く登場する。
標高の高い山が海から聳え立ち、高緯度のため平地にも高山植物が咲く千島列島。そこで魚を獲り、鯨を捕まえ、缶詰工場などで働いて暮らす人々。その様子を一つ一つ丁寧にルポルタージュのように歌に詠んでいる。
吉植庄亮が訪れてから半年もしないうちに太平洋戦争が勃発する。択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に先だって日本の海軍機動部隊が集結した場所であり、北端の占守島は、終戦後の昭和20年8月18日から日本軍とソ連軍の間で激戦が繰り広げられた場所である。
そんな歴史を思い起こしながら読むと、より一層味わいが深くなるように感じる。
1942年8月20日発行、八雲書林。