先日行われた現代歌人集会のシンポジウムで、「啄木の歌の良さを歌人が率先して解き明かすべきだ」という主旨の話をしたのだが、啄木の歌の良さを説明するのは、実はなかなか難しい。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
『一握の砂』のなかの一首。
私が短歌を作り始めたきっかけともなった歌である。『一握の砂』を読んだ当時、私は函館の的場町というところに住んでいたのだが、青柳町という町名もそのまま残っていた。「ああ、ここが啄木の詠んだ土地なんだ」と、時間を超えて身近に感じられたのを覚えている。
年譜的なことを言えば、啄木は1907(明治40)年5月から9月にかけて函館の青柳町に住んでいた。「友」が誰で、「矢ぐるまの花」がどんな花かといったことも、調べればわかることだ。
しかし、この歌の魅力は、多分そういうところにはない。そういうことを何も知らずに読んだ私が心を動かされたのだから。
では、この歌の何がいいのか。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 石川啄木
松村さんが函館におられたとは驚き。この歌は彼の特徴である直截な表白で歌っています。矢ぐるまの花には藍紫色と紅色があるとききます。前者は写真で見ましたが後者は見ていない。人それぞれに受け止め方があろうかと思いますがこの歌はいろいろ思い描かれると思う。これがこの歌の良さの一つ。調べも自然ですばらしい。啄木はテクニシャン、の点ですがわたしは作為ある表現でないように考えます。おそらくおのずと生まれたのではなかろうか。現今の歌は作為が勝ちすぎ思索的余情の重きがありすぎます。これも結構なのですが歌はこれがすべてではありません。友の恋歌に啄木は妻を思っているかもしれません。ゆえに矢ぐるまの花は友の恋歌が藍紫色、妻が紅色かもしれない。これはあくまでもわたしの想像。啄木の歌は素直で平明で真実があり詩情が優れている。