一方で、同じ大辻さんの発言で
(…)テーマ主義で行く人は、三十五首くらい自分の思いを歌ったら、すっきりして、歌う動機がなくなってしまう。結局、この「の」を「は」に直したらどうなるか、とか、語順を入れ替えたら自分でも思ってもみない新しい世界が立ち上がってきたとか、そういう細かいところに楽しみを見出せない限り、短歌作りは続かへんと思うけどなあ。
という部分などは、話半分に聞いた方がいい。これはテーマ性重視の歌壇の現状に対する違和感から言っていることであって、やや勇み足な感じがする。
「何を詠うか」か「どう詠うか」か、というのは古くからある議論で、「塔」で言えば1960年〜61年にかけて、坂田博義と清原日出夫の間でも議論が交わされている。
けれども、本当にそんなふうに二つに分けられるものなのか、というのが私の考えだ。どちらを重視するかという立場の違いはあっても、やはり短歌は「何を、どう詠うか」の両方ともが大切なのではないか。
どちらか一方を重視するあまり、もう一方を否定する必要はないだろう。同じ理由で、「テーマか修辞か」とか「人生派か言葉派か」といった分け方についても、いつも疑問を感じている。