2012年05月24日

「京大短歌」18号(その2)


一方で、同じ大辻さんの発言で
(…)テーマ主義で行く人は、三十五首くらい自分の思いを歌ったら、すっきりして、歌う動機がなくなってしまう。結局、この「の」を「は」に直したらどうなるか、とか、語順を入れ替えたら自分でも思ってもみない新しい世界が立ち上がってきたとか、そういう細かいところに楽しみを見出せない限り、短歌作りは続かへんと思うけどなあ。

という部分などは、話半分に聞いた方がいい。これはテーマ性重視の歌壇の現状に対する違和感から言っていることであって、やや勇み足な感じがする。

「何を詠うか」か「どう詠うか」か、というのは古くからある議論で、「塔」で言えば1960年〜61年にかけて、坂田博義と清原日出夫の間でも議論が交わされている。

けれども、本当にそんなふうに二つに分けられるものなのか、というのが私の考えだ。どちらを重視するかという立場の違いはあっても、やはり短歌は「何を、どう詠うか」の両方ともが大切なのではないか。

どちらか一方を重視するあまり、もう一方を否定する必要はないだろう。同じ理由で、「テーマか修辞か」とか「人生派か言葉派か」といった分け方についても、いつも疑問を感じている。

posted by 松村正直 at 00:28| Comment(1) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
35首ほどで詠う動機がなくなってしまうテーマ主義とは情けないやら貧しいやらの思いである。諸君、歌は料理と一緒で無限の創作に他ならない。ものを創るときこれで終わりということはないのだ。名のある大辻氏の弁として情けない。この位の量で終わるとなれば創作の喜びをいまだ知らぬからである。ということは大辻氏はまだまだということで今の歌に満足せずに天狗にならずにやらねばならずやるべしである。歌の肝要はまずすぐれた詩をつくることである、しかうして詩に合ったすぐれた表現がもとめられる。これを簡単に出来るものは天与の才の持主である。ではそうでないものはどうすればいいのか。わたしははじめに真の言葉をもつべきと思う。まことの言葉を有したならば次は歌づくりである。ひとつの歌を完成するためにはじめは時間をかけて凝ってつくるべきである。深くて高くて澄んで内容のある黎明のひかりのある歌をつくらねばならない。ひとつの秀歌ができればあとは次々とできるであろう。大切なことは創る喜びを知ることであり誤った経路にはいらないために心構えのゆらぎのない正しいこころと目をもたねばならない。才能があっても心構えのないものは大辻氏ぐらいの歌で止まってしまう。個人名を出したのだが彼はわたしの真剣な思いを理解してくれるであろう。諸君にすぐれた歌が生まれることを熱く祈念する。
Posted by 小天狗 at 2012年05月27日 08:04
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