2012年05月16日
岡井隆と品田悦一
岡井隆の『今から読む斎藤茂吉』は全24章から成っているが、18章に「品田悦一著『斎藤茂吉』の問題点」という文章がある。また20章に「『柿本人麿』をどう読むか」という文章もあり、こちらでも品田の本が取り上げられている。
岡井は、茂吉と直接会った日のことや茂吉の葬儀に参列した思い出を記しつつ、品田の本に対する「言ひにくい異和感」や「若干の疑義」を述べている。戦争責任の追及や第二芸術論の高まりにより茂吉の評価が低かった時代を肌で知っていて、また自らも歌人としての長いキャリアを持つ岡井が、若い研究者である品田の書く文章に対して覚える違和感はわからないではない。
ただ、それは「無いものねだり」ではないだろうか。1959年生まれの品田が戦後すぐの時代を肌で知っているはずはないのだし、また歌人でない品田に〈歌人とは「無限の前進が可能だ」などと思ふものだらうか〉と問いかけてみても仕方がない。歌人、研究者それぞれの読み方や捉え方があっていいことだ。
この二人は、角川「短歌」5月号の鼎談「今、茂吉を読む意義とは」でも、司会の川野里子を交えて話をしている。「今日は岡井さん、品田さんという、茂吉を読むならこの人、というお二人をお迎えして」という川野の言葉は、全くその通りである。ただ、対談や鼎談が難しいのは、ベストな人同士が話をしたからと言って、必ずしも話が噛み合うわけではないということだ。
不完全燃焼に終った印象の強い鼎談を読んで、何とも残念な気がしてならない。
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