今年は生誕130年ということで、「角川短歌」5月号で58ページにわたる特集が組まれているほか、各地で様々なイベントが行われている。
今朝の朝日新聞の「天声人語」も、この茂吉のことを取り上げている。「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」を引いて、その後、最近の燕の減少へと話を続けている。
▼野鳥の会は、原発事故による放射性物質の影響も懸念する。子育て中のツバメはせわしない。1時間に何十回もエサの虫を運ぶと聞く。無心な親鳥と、「のど赤き」新しい命を思えば、罪の意識がチクリと痛い
この部分を読んで、ちょっと立ち止まった。執筆者は「のど赤き玄鳥」をツバメの雛だと読んでいるようだ。巣から雛の頭がのそいている場面を想像しているのだろう。しかし、雛はまだのどの部分が赤く(赤茶色く?)なってはいないので、これは成鳥だと思う。
それにしても、家の梁にツバメが止まっていることも、家の中で人が死ぬことも、今ではほとんど見られなくなってしまった光景だ。こんなところにも、時代の変化を感じることができる。
子どものころ「幸せの王子」という絵本が好きで、
大人になってから買いなおしたくらいです。
昨年でしたか、
中学の息子が国語で短歌を習ったとき、
この歌が出ていましたが、
その時もヒナのうたとして習っていたと思います。
ヒナが大きな口をあけて(喉の赤いところを親鳥に見せて)
餌をもらっているその生命と死にゆく母親の命との対比…と。
もうひとつ、これはどこかで聞いたエピソードですが、
超有名&優秀な大学でこの歌に触れていたとき、
学生が「のどが赤いって、風邪でも引いているのですか?」と
聞いたとか聞かないとか。
これからも
つばめをじっくり見たことのない子どもが
増えていくのでしょうか?
「ふたつ」はつがいということだと思います。
作者の自注に頼るまでもないですが、茂吉の「作歌四十年」を見ても、
もう玄鳥が来る春になり、屋梁に巣を構へて雌雄の玄鳥が並んでゐたのを
その儘あらはした。
と書いてあります。
大きな自然の生命の循環といったものは感じますが、もしこれが生まれたばかりの
雛と死にゆく人との対比であったなら、底の浅い歌になってしまうでしょう。
茂吉のこの歌は通常のアララギの写生で詠んだものでしょう、意味深を意図することなく。彼は絵ごころがあり歌にも揺曳しているようだ。つばめは愛らしい。わが家の田舎の家の戸口には出入りする空間をつくっている。下に落とす糞も嫌な顔をしない。茂吉が詠んでいる屋梁があるところにつばめがいるのだがこれはめずらしい。多分、昔の田舎の農家だったのだろう。もしもこんなところに巣を構えたら蛇がやってくる。たしかに、このごろはつばめも雀も少なくなっているようだ。農薬のせいかもしれない。