文章は、昭和5年8月にアララギの安居会で高野山を訪れ、別の用事で近くまで来ていた東声と電話で話をし、その後、偶然北見志保子と出会った場面から始まる。その時、茂吉は「橋田君も高野山に来てゐますね」と言いかけて、口を噤んだのであった。
(…)橋田君に就いて最も印象の深いのは、橋田君が大学を出られ、奥さんのあさ子さんと一しよに青山の長者丸に住まはれた時である。その時橋田君は病弱で、僕もたまたま聴診器などを持つて見舞つたことをおぼえてゐる。(…)あさ子夫人は所帯のさう豊かでないなかを甲斐甲斐しく世話して居られたので、僕は橋田君を深く感ずると共にあさ子夫人に対する印象もまた深いのである。
茂吉はこう述べたのち、高野山で志保子に東声のことを言いかけたのも「僕にとつては極めて自然の心の動きで、そこにちつとも無理がないといふ気がしてならぬのである。即ち、僕は橋田夫妻のしみじみとした生活の時代を知つてゐて、後年の葛藤生活の時代のことは知らぬからである」と記している。
その後も東声を偲ぶ文章は続くのだが、「橋田君にはその後貞淑な新夫人が出来て」といった書き方を見ると、やはり、そこには「貞淑でなかった前夫人」というニュアンスが感じられる。これが、文明や茂吉から見た北見志保子像なのかもしれない。