永田さんの連載「河野裕子と私 歌と闘病の十年」の第十回。
今回は乳癌の再発が見つかった後、家族4人で京都御所に写真撮影に行った話や、京都新聞に連載した「京都歌枕」の話が中心である。
何の気なしに読んでいたところ、〈松村正直歌集『やさしい鮫』を読んだとき、なかに「明智藪」という一連があって、不思議に記憶に残っていた。〉という記述に出くわして、びっくりする。
明智藪は京都市伏見区小栗栖(おぐりす)にある、明智光秀が最期を遂げたと伝えられる場所。山崎の合戦で敗れた光秀は、近江坂本の居城を目指して逃げる途中、伏見の大亀谷を通り、この小栗栖で殺されたのである。
大亀谷には私の自宅があり、小栗栖の近くには息子の通う保育園があった。
というわけで、私にとっては非常に身近な地域。
もっとも、明智藪自体は永田さんも書いている通り、「なんだこんなところか」というようなところだ。でも、あんなところにも河野さんは足を運んだんだなと思うと、懐かしい気持ちになる。
ずっと「おぐるす」と思ってたのですが、中学校は「おぐりす」なんですね。
もともと歴史的には「おぐるす」と言っていたようですね。地名辞典などでは確かに「おぐるす」で載っています。
それが、だんだんと漢字の読みに引きずられて「おぐりす」と読まれるようになり、今では公的なものはほとんど「おぐりす」になっている、ということみたいです。