詳しい内容には立ち入らないが、問題点をいくつか指摘しておきたい。
まずは文章の旧かな遣いである。文章を旧かな遣いで書くのは自由であるが、旧かな遣いを使うならば、間違えずに書く必要があるだろう。それは新かな旧かなに関係なく、当り前のことである。
「労わり」→「労はり」
「留めておらず」→「留めてをらず」
「そう留める」→「さう留める」
「整え」→「整へ」
「伝える」→「伝へる」
「なつている」→「なつてゐる」
ざっと気が付いたものだけで、これだけの間違いがある。「今生陛下」→「今上陛下」といった間違い(これはコメントで指摘した)も含めて、もう少し何とかならないものか。
また、筆者は斎藤茂吉の
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
という一首を「斉藤茂吉が母を背負ふ歌」と記して、それを前提に論を進めている。この歌をどのように読むかは自由であるが、少なくとも私は、これまでこの歌をそのように解釈した文章を読んだことがない。新しい読みを提示するならば、まずその論拠をきちんと示してからでなければ、その先へ話は進められないのではないか。
こうした文章が「短歌時評」という名で掲載されていることに、何とも複雑な気分になる。
僕にはまだ時評を書くほどの力はなかつたのだと感じています。
松村さんにですが、
斉藤茂吉の件は、これはアララギにいたときに
聞き及んでいるものです、
特定の資料と読みを出せということであれば、
すこし調べます。
僕としては、逆に既視感のある論なのではないかという方を
心配していたので、すこし意外でした。
嫌味ではないので、そのままの意味で捉えてください。
ご迷惑おかけしました。
僕にはまだ時評を書くだけの力がなかつたのだと思つています。
ただ、文語はやはりいいものなのでお勉強したくて
最近、書くようにしています。人にご迷惑がかかるので時評は止めます。
それから、松村さんへ
茂吉の歌の件なのですが、
これは、僕がアララギにいた頃に聞き及んでいる記憶から書いています。
もし、根拠の提示ということであれば、
文章にして出してみますが、ちょっと締切が忙しいのでお時間頂戴します。
あと、松村さんが本を読んで総合的に解釈として
通例としていらっしゃるものはどの解釈になりますでしょうか?
コメントを1回送信したのですが、消えたようなので再度送信します。
こんにちは。松村です。
文章を雑誌やWEBで発表することには責任が伴うと僕は思っています。それは書き手の責任だけでなく、それを載せる人の責任も含めてです。
「時評を降りる」ことや「時評を止め」ることが、責任を取ることになるのかどうかわかりません。それは、玲さんご自身が決めることでしょう。
赤茄子の歌については、昔から様々な解釈がありますが、僕は作者が一人で歩いている場面だと思っています。「母を背負ふ」という解釈は寡聞にして知りません。
佐藤佐太郎『茂吉秀歌』、塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』、玉城徹『茂吉の方法』、土屋文明編『斎藤茂吉短歌合評』など、どの本にもこの歌は引かれていますが、「母を背負ふ」という読みはないようです。
誤解のないように書いておきますが、「だから、その読みはおかしい」と言っているわけではありません。その読みの説明を、まずは十分にしてほしいということです。
急な展開に少々驚いています。
「詩客」はいつも注目して読んでいますが、運営サイドにも、届いた原稿をそのままUPするだけではなく、一定のチェックをする働きが欲しいと思います。
『詩客』には脱・紙媒体時代を
質・量両方の面でクリアしていただきたい、と思っております。
私個人は、単なる短歌の時評の書き手でしかなく、
内部事情は全く存じ上げないのですが、
彼らは彼らなりに努力し、奮闘なされておられることは事実です。
松村さんに見られている、注目されているということは、
三詩形すべての書き手が肝に銘じるべきことと考えます。
どうぞ、このまま率直な批判をお願いしたく思います。
ただし、いまのところ運営サイドは手一杯な部分があるように思います。
その点含めまして、どうぞお見捨てならぬようお願いいたします。
私も努力いたします。
田中
お忙しいところすみません。
書き手の責任はよくわかつているので、
それについては僕もわかつていて文語のお勉強をしています。
僕は最近文語に切り替えたばかりなので
文語についてはあまりよく書けず、
今までも方々でご迷惑をかけているので、
その点につては反省はしているのですが、なかなかうまく書けません。
編集の責任は、理屈で言えばそうですが、
サイトは自主運営されているので
信頼された人に依頼が来ているのだと思います。
田中さんもその一人なのだと思います。
今回は僕が文語を書きたいわがままで続けていると
このように主催に迷惑がかかるので辞めることにしました。
茂吉の件ですが、佐藤佐太郎・塚本邦雄・玉城徹・茂吉合評
玉城徹以外は手元にあるので確認しました。
「この歌は斉藤茂吉が母を背負う歌を連想させる作りとなつている」
この部分の説明が足りないということですよね。
啄木の歌との対比からの聞き覚えがあるのですが
こちらは、先ほど申しましたようにすこしお時間いただいて
調べてみます。
いずれにしても、不快を与えたようで
大変申し訳ございませんでした。
では、とりあえずにて失礼します。
問題になっている茂吉の歌については、『赤光』収録だったはずですが、その中の「死にたまふ母」連作に頻出する「赤」や「火」のイメージと関連づけて、この歌の「赤茄子」を「母」とする論文を読んだことがあります。手元に見つからないため出典を今示すことができず申し訳ありませんが、かなり古いものであったと記憶しております。
ただ、「文語」ではなく「旧かな」の問題だと思います。
「不快を与えた」というようなことは、今回の件の本質ではないでしょう。
客商売では「文句を言わない客が一番こわい」とも言いますから。
これについてはきちんと清算が必要とされます。
「こうした文章が「短歌時評」という名で掲載されていることに、何とも複雑な気分になる。」
僕はイコール。読むに値しない、読みたくない。
というように理解しました。
なので「不快を与えてすみませんでした」と書いたのですが、
「客商売では「文句を言わない客が一番こわい」とも言いますから。」
というのは、大多数の人に意見を委ねていて
自分の意見を分散させてしまっている。
日記だから散文でもいいのでしょうが
言われている側としては、
松村さんぐらい名の通っている人に
雰囲気で発言されるのは困りますし
場合によっては侵害として訴えなければなりません。