山鳩のでいでいぽぽと啼くこゑのあけがたはみえぬ巡礼のゆく
咳するに遠く旅立つひとの見ゆひとつの咳にひとつ旅びと
山の上のひろい水溜りはふかみどりこのやうな停滞をわれはよろこぶ
鉛筆のやはらかくねばりある芯のうごくさき春といふ字うまるる
はげしかりし雨筋の残像として芝にささりてゐる槍あまた
てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ
腋の下ながるる春の川のおとあまりにかすかなればねむたし
山のふもとのじねんにまがる道をゆき野茨や忍冬(すひかづら)匂ふも
あぢさゐの球(たま)のふくらむあめのなかぼんやりと序二段力士ありけり
死蜂ゆ〈死〉のはなれゆきただのものただのものとぞひからぶるからだ
未発表歌356首を収めた第7歌集。一首一首に立ち止まり、歌のイメージを十分に味わいながら読んでいく。山鳩の鳴き声のなかの巡礼者の姿、激しい雨の後に残る槍、あじさいの花と序二段力士。何でもありのようでいて、決してでたらめではない。こうした歌は、現実と幻のギリギリのせめぎ合いのなかにのみ、生まれるものなのだろう。
「妻がまだ生きていた頃、私も自分がいずれ筋委縮性側索硬化症と診断されることになるとは夢にも思っていなかった頃の作品です」というあとがきの言葉が、何ともかなしい。
2011年8月10日、ながらみ書房、2730円。
山鳩のでいでいぽぽと啼くこゑのあけがたはみえぬ巡礼のゆく 渡辺松男
この山鳩の鳴声は仏の声か、声はすれども姿はみえぬ仏をもとめてゆく巡礼者を導いているかのようだ。巡礼がみえぬのは夜の闇か、それとも霧につつまれていたのか、後者のようだ。詩が鮮明にうかんで余情があり浅からぬ歌となっている。彼は病もちときく。巡礼のように仏に遇いえがたいひかりにつつまれてほしいと思う。作者のおんとし60とはひとも歌も熟成にいりつつある。われわれに秀歌をまみえさせていただきたい。