明治34年 「倫敦消息」の原稿は所在不明このように並べてみると、明治40年の『虞美人草』の原稿と初出の「東京朝日新聞」の間に線を引くことができる。この時点で、漱石は「葡萄耳人」から「葡萄牙人」へと表記を変えたのである。
明治34年◎「倫敦消息」(初出『ホトトギス』)・・・葡萄耳人
明治40年◎『虞美人草』の原稿・・・葡萄耳人
明治40年 『虞美人草』(初出「東京朝日新聞」)・・・葡萄牙人
明治44年◎「マードック先生の日本歴史」の原稿・・・葡萄牙人
明治44年 「マードック先生の日本歴史」(初出「東京朝日新聞」)・・・葡萄牙人
大正 4年◎「倫敦消息」の原稿・・・葡萄牙人
大正 4年 「倫敦消息」(初出『色鳥』、新潮社)・・・葡萄牙人
おそらく、子規に宛てた手紙が「ホトトギス」に載った段階では、「葡萄耳人」という表記について誰も何も言わなかったのだろう。しかし、『虞美人草』を新聞に連載する段階で、「葡萄耳人」という表記は新聞社のチェックを受けて「葡萄牙人」に直された。
それ以降、漱石自身も「葡萄耳人」と書くことはなくなったのである。「マードック先生の日本歴史」では、原稿の段階で既に「葡萄牙人」と書かれている。『色鳥』所収の「倫敦消息」において「葡萄耳人」が「葡萄牙人」に書き直されたのも、同じ理由によるのだろう。
こうして、「葡萄耳人」というユニークな表記は、日本語から姿を消したのである。《完》