穂村 その一人称がもうちょっと、永井陽子さんとか、紀野恵さんとか、水原紫苑さんとか、そういうバリエーションがあって価値が多様ならいいと思うんだけれども、どうも違いますね。やはりその人生に即した一人称で歌っている人のほうが主流という印象があって、永井陽子さんは死後評価されたと思いますけど、生前、十分評価されたという感じはしないし。穂村さんの描く図式は下記のようなものであろう。
○人生に即した「われ」 河野裕子、小島ゆかり、米川千嘉子(主流)
○人生に即さない「われ」 永井陽子、紀野恵、水原紫苑(非主流)
発言の意味するところはよくわかるし、大筋では同意できるのだが、どうも違和感が残る。この二項対立の図式は、少し単純すぎるのではないだろうか?
例えば、河野さんの
お嬢さんの金魚よねと水槽のうへから言へりええと言つて泳ぐ 『歩く』といった歌は、こうした図式からは抜け落ちてしまうだろう。
豆ごはんの中の豆たち三年生、こつちこつちと言ひて隠れる 『季の栞』
また、永井さんの
つくねんと日暮れの部屋に座りをり過去世のひとのごとき母親 『てまり唄』などの歌も、なかったことになってしまう。
マンションへ来てしまひたる鍋釜を網タワシにてみぢやみぢや磨く
『小さなヴァイオリンが欲しくて』
そうすると、河野さんの歌も永井さんの歌も、魅力が半減してしまうような気がする。
現代短歌に対する穂村さんの分析はいつも鋭くて、座談会でもパネルディスカッションでも、穂村さんの提示した枠組みに沿って話が進んでいくことが多い。けれども、その枠組み自体を、本当にそうなのか疑ってみる必要があるだろう。