日露戦役(にちろせんえき)のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台(こくこうだい)から奉天(ほうてん)の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂が毎日のやうにあつた。恰(あたか)も奉天の包囲線が酣(たけなは)になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴を穿きそれから羽織を着た。それから弓張を灯(とも)し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶々(たまたま)帰省したりすると嫂(あね)などがよく話して聞かせたものである。近隣の村々から戦死者や戦傷者が次々に出て、不安な気持ちで日々を過ごしている家族の様子が伝わってくる。そんな折に、聯隊司令部から電報が届いたのだ。おそらく家族たちは広吉の死を覚悟したことだろう。
幸いなことに、広吉は死んではいなかった。広吉は黒溝台会戦(1905年1月25日〜29日)のあと、陸軍の最大の戦いであった奉天会戦(同年3月1日〜10日)に参加し、そこで負傷したのである。
こうした戦いの詳細については、明治39年に出版された『第八師団戦史』という本に詳しい。これは、現在、近代デジタルライブラリーで全編を読むことができる。
その125ページを見ると「奉天附近会戦における富岡旅団将校戦死負傷者人名は左記の如し」として戦死者、戦傷者の名前が列挙されている。その中に、富岡旅団岩本聯隊(後備歩兵第8師団後備歩兵第17聯隊)の戦傷者として
歩兵中尉 守谷広吉の名前を確認することができる。
よくぞこんなの調べましたねえ。