2011年12月17日

黒溝台(その4)

茂吉は「童馬山房夜話」でも「黒溝台戦」(昭和10年5月号)、「第八師団戦記」(昭和10年6月号)の2回にわたって、黒溝台のことを取り上げている。
 日露戦争三十周年に当るので、新聞で回顧座談会を載せ、とりどりに有益であつた。ある日、某将軍が黒溝台戦の話をして、『東北の師団の兵は鈍重だが、大敵にむかふと強い』といふことを云つて居られた。
 私は昭和五年の初冬に、八木沼丈夫君に導かれて親しく黒溝台の戦蹟を訪ひ、陣歿した、私の小学校の友達などの霊を弔つたのであつた。
 この劇戦に長兄守谷広吉は中尉小隊長として、従弟、高湯温泉の斎藤平六は軍曹分隊長として戦つた。二人とも幾遍も死を覚悟し直した話をした。四昼夜の劇戦で、しまひには眠いので、死が恐ろしくなくなつた話などをした。
 この三十周年記念に、私は、『三とせまへ身まかりゆける我が兄は黒溝台戦に生きのこりけり』といふ一首を作つた。これは雑誌改造に載つた筈である。
ここでも「東北の師団の兵」の活躍が誇らしげに記されている。「小学校の友達」が戦死していることからもわかるように、日露戦争は茂吉にとっても他人事ではなかったのだ。

また、『暁紅』に収められた「三とせまへ・・・」という歌が作られた理由もこれでよくわかる。兄の死から三年経ってこの歌が詠まれたのには、日露戦争三十周年記念という契機があったのだ。
A うつせみのいのち絶(た)えたるわが兄は黒溝台(こくこうだい)に生きのこり
  けり          第9歌集『石泉』(昭和26年刊)
B 三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に
  生き残りけり     第11歌集『暁紅』(昭和15年刊)
では、AとBとは、どちらが早く作られた歌なのだろうか? Bが昭和10年の作であることは、この「童馬山房夜話」の文章からも明らかだろう(初出と歌集とでは細かな異動があるが)。

一方のAについてだが、昭和19年に書かれた「作歌四十年」の中で、当時まだ刊行されていなかった『石泉』の歌として、この一首が引かれている。つまり、昭和6年の広吉の死〜昭和19年の間に作られた歌ということになる。

はたして、それは昭和10年より前なのか後なのか。結論はまだ出ない。普通に考えればAの歌が先に作られたとなるのだろうが、もしかするとBの歌の方が先にあって、その後でAの歌が作られたという可能性も捨てきれない気がするのである。

posted by 松村正直 at 00:16| Comment(0) | 斎藤茂吉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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