2011年12月15日

黒溝台(その2)

茂吉は長兄広吉が亡くなる前年の昭和5年10月に、満鉄に招かれて満洲各地を旅している。その際に黒溝台も訪れ、ここから広吉に宛てて手紙を出している。
[十月二十三日 日本山形県南村山郡堀田村金瓶 守谷広吉様 黒溝台より]
昭和五年十月廿三日遼陽県黒溝台にまゐり兄上の苦戦の跡を偲ぶ 斎藤茂吉
この時の生々しい記憶が、「黒溝台に生きのこりけり」の歌にも当然反映しているのだろう。茂吉はこの地で「黒溝台」19首を残している。
わが兄の戦ひたりしあとどころ蘇麻堡(そまほ)を過ぎてこころたかぶる 『連山』
八師団の兵の築きし土堡(どほ)一部残れるがうへに暫したたずむ
こもごもに心に迫(せま)るものありて黒溝台の夜(よる)をねむらず
機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵(とうほくへい)を吾はおもひつ
2首目に出てくる「第八師団」は日清戦争後に増設された師団で、東北出身者の多い師団として知られていた。4首目の「東北兵」にも、もちろん山形県出身である茂吉のふるさとに対する思いがこめられている。

この黒溝台行きのことは「満洲遊記」にも描かれており、これらの歌の背景を詳しく知ることができる。
この蘇麻堡は黒溝台戦の激戦地で、黒溝台を退却した第八師団の兵は暫く此処に拠つて防戦したところである。長兄のゐた後備歩兵第八旅団も此処を防ぎ、山形の歩兵第三十二聯隊もこの蘇麻堡の前面に立止まつたのである。長兄はよく蘇麻堡のことを話したものである。其処を行くと、一面勾配のゆるい畑地で、其処に、秋田の第十七聯隊、青森の第三十一聯隊、山形の第三十二聯隊の兵等の嘗て築いた土堡のあとが未だ処々に残つてゐる。(…)東北兵は、事実上雲霞の如き敵に対し、雪の上にへばりついて此処を突破せしめなかつた処である。私の小学校の友も、村の貧農のせがれも此処に命をおとした。
「山形」「秋田」「青森」といった言葉が続々と登場する点に注目したい。「歩兵第三十二聯隊」で十分なところを、わざわざ「山形の」と付けているのだ。この文章を読むと、茂吉の黒溝台に対する思い入れは、単に兄が戦った場所というだけにとどまらないことがよくわかる。キーワードは「東北」なのである。

posted by 松村正直 at 19:18| Comment(0) | 斎藤茂吉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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