愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う先日、この歌についての評を書く機会があった。そこに〈「愛人でいいの」「言ってくれるじゃないの」といった話し言葉を、句跨りを用いて無理なく定型に当て嵌めている〉と書いたのだが、書き終えてはたと気が付いたことがある。これは、本当にただ当て嵌めただけなのだろうか?
俵万智『サラダ記念日』(1987年)
この歌の素材となっているのは、おそらく1985年に大ヒットしたテレサ・テンの「愛人」だろう。その歌詞は、次のようなものである。
あなたが好きだから それでいいのよ1番に「わたしは待つ身の女でいいの」、2番に「わたしは見送る女でいいの」という言葉はあるが、「愛人でいいの」という言葉は、実はどこにもないのである。つまり、「愛人でいいの」は、この歌のタイトルや歌詞からアレンジして俵万智が作りだした言葉なのである。
たとえ一緒に街を 歩けなくても
この部屋にいつも 帰ってくれたら
わたしは待つ身の 女でいいの
(以下略)
もし、これが歌詞通りであったら、どうだろう。
待つ身の女でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う (改作例)どちらも定型からはみ出してしまうし、内容的にも弱くなってしまう。やはり、ここでは「愛人」という言葉が必要なのだ。
見送る女でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う (改作例)
この一例を見ただけでも、『サラダ記念日』という歌集は、表面的な見かけに比べて随分と工夫のあることがわかるのではないだろうか。何でもないようでいて、実は意外にしたたかな歌集なのである。
本当に愛人かもしれない。その点地でいったような歌だ。この歌の良
さは思いがけず真実性があることだ。歌を読んでかなしい一人の女性
を浮かべる。