古の嘉麻(かま)の郡の名をとどめ流るる川の炭坑のにごり前回の文章を読めばわかるように、三首目の「芝栗の原」も憶良の栗の歌を念頭に置いたものである。こうした点が、歌だけを読んでどこまで読み取ることができるのか。文明の歌を味わう難しさでもあるだろう。
友八人米ノ山を大宰府に越えむとす憶良越えきやと語り合ひつつ
ほし草のにほふ峠の上も下もいまだ幼き芝栗の原
『青南集』
昭和55年の「筑紫回想」には、こんな歌もある。
筑紫の旅その時々に楽しかりき行き難き老となりて思ふも文明は既にこの時、90歳。さすがに九州へは「行き難き」身であっただろう。それでももう一度米ノ山峠に行って、9月3日に栗が熟しているかどうか確認したいという思いを抱き続けているのである。何という執念(?)だろうか。
いま一度見たきは米の山峠の栗九月三日に熟するや否や
『青南後集』
さらに、同じ年にこんな歌も詠んでいる。
九月七日道のゆきずりに栗を得つ憶良に後くる四日ならむか散歩の途中か何かに栗を拾ったのだろう。それが、憶良の栗の歌が詠まれた「九月三日」の四日後の九月七日だったというわけだ。何歳になっても文明の頭からは、憶良の栗のことが離れないのである。
『青南後集』
「斎藤茂吉を語る会」があり、
そこで文明を語るパネルをやりました。
たのしかったです。
文明の「万葉私記」は読まねばなりませんね。
あれを読まないと、
青南集以降の文明の歌(とくに旅の歌)は
分かりませんねえ。
このような丁寧な追跡がとても
大切だと思います。
さすがです。
またいろいろ教えてください。
米ノ山峠には、今も栗の木があるのですね。文明の『方竹の蔭にて』というエッセイ集は、西日本新聞に連載した文章が元になっていますので、九州関係の話がいっぱい出てきます。僕もまた、福岡の赤煉瓦歌会に行きたくなってきました。
>大辻さま
『青南集』以降の歌をどのように位置づけるかという問題を最近よく考えています。
文明について論じる場合、戦後の『山下水』『自流泉』までで終ってしまうことが多いのですが、全歌集に収められた12345首のうち、約半数は『青南集』以降の歌であって、そこを無視しては文明の全体像を捉えられないように感じています。
ある種の「解読」的な作業が必要となる歌も多いのですが、それはそれでけっこう面白いのではないかというのが、僕の基本的な考えです。その線でコツコツと調べ続けていければいいなと思います。