(…)私が嘉摩郡に心を引かれたのは、神亀五年(七二八)七月二十一日、太陽暦で言えば九月三日に、当時筑前守、すなわちこの地方の長官であった山上憶良が、政務巡視の要務を帯びてこの嘉麻の郡役所に来、そこで作った歌が万葉集に長短十二首も載り、(…)
「米ノ山越え」(『方竹の蔭にて』所収)
文明は当時の憶良の通った道を探して、太宰府から米ノ山を越えて飯塚方面へ抜ける道を(反対向きに)たどっている。
憶良が嘉麻郡役所で「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばましてしのばゆ」と歌ったのは、前に言うごとく陽暦の九月三日であるが、私たちの今越えてゆくのは八月七日であるから、もちろん栗のいがは青々としている。しかし低い木なのに、どの木にもじつにたくさんの実がなっている。私には、憶良がこの米ノ山を越えながら「栗食めば」の句に思いあたったのではあるまいかとさえ錯覚されるのであった。
前回引いた歌は昭和55年のものであるが、「筑紫回想」という一連に入っているので、この24年前の旅を回想しての一首ということになるのだろう。