お婆さん、手袋おちましたよと後ろより言はれる日が来る ハイと振りむく日が
もう一度の生のあらぬを悲しまずやはらかに水の広がる河口まで来ぬ
夕虹が二つ出てゐたと紅(こう)が言ふ見なくてもわかるとても淋しいから
ぼんやりのアホな猫なれど機嫌よし注射打たれてもムーと返事す
もの食へず苦しむわれの傍にゐてパンを食べゐる夫あはれなり
渓谷の空より鷂が見てゐるは胡麻ひとつまみ程のバスを待つ人
たつた一人の女の子と膝にのせたれど僕ちやんだよと走つてゆけり
砂丘産小粒らつきようの歯ざはりをしばらく思ひ長く瞑目
ひと月を咲き続けゐる立葵あなたはよかつたわねわたしの庭に来て
誰も皆わが身にふるるに消毒すナスの花にも似たるその匂ひ
昨年8月12日に亡くなった河野裕子さんの遺歌集。
河野さんが亡くなる直前まで見ていた景色や、聞いていた物音などが、歌にはたくさん詠まれている。肉声が聞こえてくるような歌が多くて、しばらくしんみりとした。
河野さんのことをあれこれ思い出してとても客観的には読めなかったが、それでも歌の持つ言葉の力というものは十二分に感じることができた。結局残るのは「言葉」であって、「物語」ではないのだ。
もうすぐまた、蝉の鳴く季節がやって来る。
2011年6月12日、青磁社、2800円。