2011年05月23日

「塔」1972年2月号

 たとえば、こんな私。朝。目がさめぎわ、私はまだきのうの延長線上に立っている。一日じゅう、精一杯生きたと思う。なのになぜだか、たまらない。私という存在を、精一杯生きたとか、そういう感情で許してしまってよいとはどうしても考えられないのだ。

これも「現代短歌に何を求めるか」という特集に寄せられた文章。筆者は永井陽子。当時20歳。「短歌人」の歌人であった永井は、ゲストとしてこの特集に参加している。
文章と一緒に〈触れられて哀しむように鳴る音叉 風が明るいこの秋の野に〉以下20首の作品が載っている。第一句歌集『葦牙(あしかび)』時代である。
 私たちの言語で、私たちの心を歌うことだ。新しい抒情を築くことだ。こころ、屈折し、憎まれて、それでもなお美しくあろうとして、ぽたぽたしたたり落ちてくるしずく。私が現代短歌に求めるものは、そんな、醜くてしかも美しい抒情である。いつの日か、その抒情で私の足元についている紐をぷつんと切ることができたなら、私はその時、部屋のドアをいっぱいにあけて、住人たちを空に解き放ってやろうと思うのだ。

永井陽子が亡くなってから、もう11年が過ぎた。はたして彼女は、足元についている紐をぷつんと切ることはできたのだろうか。

posted by 松村正直 at 17:21| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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