春ゆふべやうやく昏れて食卓の煮物の鹿尾菜(ひじき)くろぐろひかる
山鳩はすがたの見えてわがまへに啼くなれど声はとほく聞ゆる
一列に雪のあさ行く子らにして幼きものは顔引き緊まる
針のごと突きいだしたる嘴(くちばし)の先端に朱をともせりさより
アクアチントのやうな日暮れだ銀行に橋行く人に霙(みぞれ)は降りて
自転車を押すわが影を見てのぼる〈踵(あぐど)下がり〉の三馬橋(さんまばし)の坂
九十七歳ですよと母に言ひやれば舌が笑へり歯のなき口に
脚立下り松を眺むる庭師にて手順のごとく煙草をくはふ
雪の来て寡黙にわれらなりゆくに木々はしづけき力をたもつ
山茱萸(さんしゆゆ)の珊瑚の色の実に降れる師走の雪は影をともなふ
第6歌集。作者が住む盛岡を中心とした東北地方の気候や風土を詠んだ歌が多い。「岩手地名集」や「方言」といった地元の言葉を題材にした一連もあり、土地への愛着がうかがわれる。見た目の派手さはないが、文語定型の持つ味わいを十二分に感じさせる歌集と言えるだろう。
タイトルは「渋民を出でてかへらぬ一人ありひばの木に降りし百たびの雪」という一首から取られたもの。この歌には「啄木が渋民を出でしは明治四十年五月」の詞書があり、それから百年が過ぎたことが背景となっている。その百年の間、冬が来るたびにこの地に雪は降り積もったのだ。そうした歴史的な厚みが、この歌集を豊かなものにしている。
第26回 詩歌文学館賞受賞。
2010年9月30日、柊書房、2500円。