2011年02月24日

「短歌」2011年3月号

角川「短歌」3月号が届く。
巻頭は永田さんの作品「二人の時間」30首。その中に、こんな一首がある。
わたくしと竹箒とが壁に凭れ手持無沙汰に冬の陽を浴む

先日の旧月歌会にも、この歌が出ていた。その時に私が発言したのは〈「手持無沙汰」がいらない。私と竹箒が壁に凭れて冬の陽を浴びているというだけで、十分に手持無沙汰な感じは出ているので、「手持無沙汰」があるとダメ押しになってしまう〉ということであった。

その後、〈手持無沙汰なんて言ってないで、竹箒があるんだから自分で掃けばいい〉とか〈「手持無沙汰」はやっぱりこの歌には必要だ〉とか、いろいろな意見が出たのだが、その同じ一首を、妻を亡くしたかなしみを詠んだ一連の中で読むと、全く印象が違ってくる。手持無沙汰でしかあり得ない時間というもののさびしさが、ひしひしと伝わってくるのだ。

短歌というのは本当に不思議だと思う。

竹箒二本買ひ来て落葉らと戦ふやうに掃くうちに冬
                河野裕子『歩く』

posted by 松村正直 at 17:41| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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