たれもかれも故人のごとく思はるる卵かけごはん食ひつつをれば 『家』
玉子うどんの湯気をふうふうさせながら黄身が食べたいと子供が言へり 『季の栞』
卵かけごはんはと言はなければ卵かけごはんを食べざり君は 『庭』
ひつそりと卵はひとつ 夫より先に帰りし娘に食はす 『庭』
籾殻の中よりのぞける赤卵ふたつみつと嬉しく数ふ 『葦舟』
「卵かけごはん」と言うと、私などにとっては、手軽で安い食べ物というイメージしかないのだが、河野さんの歌をそのイメージで読んではいけないだろう。高度成長期以前の日本において卵は高級品だったのであり、河野さんにとっての卵もまたそういうものなのである。
それは、河野さんのエッセイ「卵かけごはん」(初出「桟橋」24号、1990年10月、『河野裕子歌集』所収)を読めば、よくわかる。
一個の卵をひとりで食べられる贅沢とは、八歳の子供にとって、この上ないことだった。家でなら、卵かけごはんの時は、卵一個を妹と半分ずつ分け、半分の卵にごはんを乗せられるだけ乗せて、おしょう油をかけると、それはもう、卵かけごはんか、しょう油かけごはんかわからなくなってしまう。それでもしょう油味のつよい卵かけごはんは、大変おいしかったのである。
「一個の卵をひとりで食べられる贅沢」という言葉に、河野さんの卵に対する思いが良く出ている。
また、卵は高級品であるとともに、栄養価の高いものというイメージがあった。病人へのお見舞いに卵を贈ることもあったのである。
卵かけごはんを二杯かつこめり滋養じやうと呪文をかけて 『歩く』
卵の持つこの栄養価に対して、河野さんはほとんど信仰にも似たものを持っていたように思う。先に引いたエッセイは乳癌を発症する前のものであるが、そこに既に次のように書いている。
パチンとお茶碗に割った卵の、むっくりとした黄身の存在感と、ほとんど山吹色の濃い黄色は、食べ物という以上の、何か生きることそのものであるような力を持っていた。
実際、病気をしたときや、病後に食べさせてもらえる卵には、他の食べ物以上のふしぎな力があるような気がしたものである。おとな達は、「滋養がある」ということばを、そういう時使った。
今、卵かけごはんがちょっとしたブームである。『365日 たまごかけごはんの本』が出たり、卵かけごはん専用醤油が売られていたりと、話題になっている。しかし、それはかつての「高級品」や「栄養価」といったイメージとは、まったく違う人気であろう。
短歌と時代との関わりとは、つまりそういうことなのである。何も難しいことを言っているのではない。短歌を読む時に、その歌が作られた時代背景を踏まえなければ、歌を全く違うイメージで読んでしまうことになりかねないのだ。
カルチャーセンターの教室で、このような話をしたところ、生徒さんたちから「それはそうよねえ」とむしろ当惑したように言われた。主に六十代以上の生徒さんにとって、卵が「高級品」で「栄養価」のあるものといったイメージは、むしろ当り前のものなのであった。
でも、私より若い世代には、そのイメージがだんだんとわからなくなっていくだろう。そうなった時に、河野さんの「卵かけごはん」の歌も、歌が作られた時代に立ち返って理解することが重要になっていくと思うのである。