二人いて何に寂しきと歌にあり海さわだてて去る夏の雨
という一首がある。この歌は、高安国世の
二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひ出づるはや
を踏まえたものだ。第一歌集『Vorfruhling』に収められた高安初期の代表的な相聞歌である。
高安の歌は「秋から冬へ」という一連に入っており、舞台は湖。それに対して、池本の歌の舞台は海であり、季節は夏となっている。夏の激しい雨が降って過ぎた海を見ながら、高安の歌や高安国世という人間を思い返しているのであろう。
さて、この高安の歌は二句切れとなっており、「二人ゐて何にさびしき」と詠まれている。この歌については、既に多くの方が鑑賞を書いており、今さら付け加えることはほとんどない。いくつか引いておこう。
(…)「二人ゐて何にさびしき」は、疑問でも、反語でもないだろう。また、この「さびしさ」は、なにか具体的な要因をもったさびしさでは、もちろんない。(…)充実しきった時間の中にいながら、しかもなお、そこに影をおとす、さびしさ、あるいはせつなさ。それは、すでに相聞という場をはなれて、青春という一回性の〈時間〉そのものでもあるはずだ。 /永田和宏「高安国世秀歌鑑賞(三)」(「塔」1985年4月号)
(…)逢いたかったひととの、喜びに満ちた時間であるはずなのになぜこんなにさびしいのかと作者はひそかに自らの心に問うていただろう。(…)「二人ゐて何にさびしき」という問いかけは、彼自身の内面に向けられ、君に向けられ、存在の根源にあるおおきなさびしさに行きつく。(…)こんなにも寂しい魂がひっそりと寄り添うことの愛しさを、作者はまるごと抱き取るのである。 /小林幸子「高安国世入門 秀歌六〇首鑑賞」(「塔」2004年4月号)
(…)私はこの「さびしさ」は行為などによっては満たされることのないものであり、そのことを作者は行為を知る前にすでに知ってしまっていたのではないか。少くとも、そうした予感が、氏にこの歌を作らせたのではないか、というひそかな感じをぬぐいきれないでいる。 /黒住嘉輝『高安国世秀歌鑑賞』(2005年)
三者の解釈・鑑賞は、ほぼ重なっていると言えるように思う。