「旧かなの魅力」という言い方を、短歌の世界ではしばしば耳にする。10月にも北上市の詩歌文学館で「詩歌のかな遣い―〈旧かな〉の魅力」と題するシンポジウムが開かれたようだ。
このシンポジウムで永田さんは、旧かなを使うことで一首の滞空時間が長くなるという趣旨のことを述べている。それを旧かなの魅力として挙げているのだと思うのだが、私はあまり賛成しない。
こうした発言の中でよく聞くのが、旧かなは実際の発音と表記との間に違いがあるので、それが頭の中で一瞬の時間の滞留を生むという主張だ。つまり、新かなで「言う」と書かれていれば、読み手はそのまま「言う」と理解するが、旧かなで「言ふ」と書かれていると、一度頭の中で「言う」に直してから理解するので、そこにわずかな時間が生まれるというものである。
これは、なるほど、もっともらしく思える論である。確かに旧かなの歌を読む時には、新かなの歌に比べて少し余計に時間がかかる。しかし、それは本当に「発音」と「表記」の差から来ているものなのだろうか?
例えば、私たちは、「私は」と書くべきところを発音通り「私わ」と書いてあったら、どう感じるだろうか。子どもの文章などよく見かける表記だが、非常に違和感を持つだろう。そして、私たちはやはり頭の中で「私は」に直して理解するだろう。つまり、そうした変換が必要となるのは「発音」と「表記」の差によるのではない。頭の中にある「仮名遣い」と文字に書かれた「仮名遣い」との差によるのである。
そもそも仮名遣いというのは社会的に決められたルール(=規範)なのであって、旧かなにしろ新かなにしろ、それ自体に何か魅力があるというようなものではない。旧かなに魅力があるように感じるのは、新かな教育を受けた人間の感じ方であって、旧かな教育を受けた人間は別に旧かなに魅力など感じないだろう。考えてみれば当り前の話である。
つまり、「旧かなの魅力」ということが言われ始めたのは、戦後、新かな教育が進んでからのことなのであり、普段と違う仮名遣いに対する違和感を「魅力」と呼んでいるに過ぎないのだ。それが本当に魅力と呼び得るものならば、「私わ」という仮名遣いも同じように魅力ということになるだろう。
最後に、念のために書いておきたいのだが、私は旧かなを使うことや旧かな遣い自体に反対しているわけではない。また、旧かなと新かなのどちらが正しいかという話をしているのでもない。私が反対しているのは、「旧かなの魅力」という言い方を安易に用いることに対してである。短歌を始めたばかりの人が「やっぱり旧かなの方が魅力的よね」などと言っているのを聞くと、何とも複雑な気持ちになるのだ。新かなでダメな歌が旧かなにした途端に良くなるなどということがあるはずもないのだから。
安易に考えてもらっちゃ困るというのは同感です。
たしか栗木氏が旧仮名文語はやわらかく聴こえる(感じる)といっておられたことを思い出す。いろいろに人それぞれに感じるものだと思ったものでした。口語には口語の魅力があり文語には文語の魅力があるのと同じことなのではないでしょうか。
仮名遣いの問題は、短歌を作る人にとっては、ある意味で避けては通れない問題ですので、これからも考えていきたいと思います。