2010年12月21日

かわのさとこの詩(その3)

(「戸外診療」つづき)

―保母をやっていた?私が……
とぎれとぎれの私の記憶には
疲れやあせりやいらだちのなかで
それに対峙するよりいくぢなくくずおれ
逃げてきてしまったという思いに
目をそむけたい心が動くのだ。
―保母をやっていた
と言い切れる何が私にあったろう
体はそこにあっても私は居なかった。
私はつねに何かに追いたてられ
何かを追いかけながら追われていた。
聞こえぬはずのものが聞こえたし
手はおむつをかえ、
ほ乳びんを握り本のページを繰るのに
心はつねにその声におびえていた。
体中耳になり目になり舌になり
長い夜を猫のように息つめてくらした
あのころの私は何だったのだろう。
―負けよう、そしたら楽になる
そのいくじなさの中で
私は眠りを得た、と思った。
けれどその眠りの中では
あらゆる現実もゆめだったのではないか
永遠にゆめであれ!と希うのはやさしい
けれどどこかでめざめようという
意志が働くとき私は私の秩序を失う。
その不安のやじろべえの
揺らぎのなかで
―かって保母であった
ということは
今、目の前の保母の背に
自らの過去を重ねあわせると
その増幅を多くするが
うしろめたさをあえて抱いて
記憶の底をのぞいてみる。

―じゃあ、このへんで。
と背後からE先生の声がした。
短かかったが長いようにも感じられた時間。
―君にここに勤めて貰って
 作業治療が出来ればいいけどねえ
 ここの院長はちょっとコチコチやから……
ふりむかぬ姿勢のまま歩く医師が
つきはじくように笑った。
二晩つづきの夜勤あけという医師の
白衣のすそのしわに
昨夜の疲れがそのまま残っていた。
病棟の入口で始めて振りかえったE先生が
―戸外診療、どうだった?
と言ってちらりと私の表情をみたので
私は口をすこしゆがめて笑った。

posted by 松村正直 at 00:21| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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