2010年12月16日

飛高隆夫・野山嘉正編『展望 現代の詩歌』


明治書院の『展望 現代の詩歌』(飛高隆夫・野山嘉正編)というシリーズがある。戦後から現在にかけて活躍した詩人・歌人・俳人を対象に、作者の経歴や活動、作品の鑑賞、作風の変化などを記したもの。全11巻のうち、第6〜8巻の三冊が短歌となっており、全部で54名の歌人が取り上げられている。

時々、調べものをする時に参考にしたりするのだが、第8巻の「岡井隆」についての内容があまりにひどいので、驚いてしまった。執筆者は吉村睦人氏。とにかく最初から最後まで岡井に対する批判を書き連ねているのである。

吉村はまず昭和27年の「アララギ」土屋文明選歌欄に掲載された初期の岡井作品が歌集に入っていないことに不満を述べ、その後「岡井隆には、その出発の発端から私には疑問を抱かざるを得ないことになる」「その後の彼の変節ぶりには、戸惑うばかりでなく、文学者のあり方として、理解に苦しまざるを得ないのであった」「短歌の本質から離れた岡井隆を私は見るばかりで、そういう作者にも早さしたる興味も関心も持てない」「このようにして、無理に歌を作り出す歌人と岡井隆はなっていっている」などと、書きたい放題だ。

岡井隆に対する評価は人それぞれであっていいと思うし、私も別に岡井ファンなわけでも何でもない。吉村が自分の評論集などに書いているのであれば、私も何とも思わない。ただ、このシリーズのような鑑賞・解説書にあっては、できるだけ客観的な記述を志す必要があるのではないだろうか。もちろん、百パーセント客観中立の立場などあり得ないわけだが、少なくともそれを目指す気持ちは持つべきであろう。

さらに困るのは、吉村が岡井の初期作品を評価するに当って、「これらは土屋文明が確信をもって選び出した作品なのである」「それは土屋文明も認めたものだというところが重要と思われる」などと、土屋文明のお墨付きを振りかざすところである。自分が良いと思ったのなら、そう書けば十分だろう。土屋文明が認めたから良いといったような論理はまったくナンセンスでしかない。こういう人たちが、結局は文明を祀り上げて権威化してしまったのだろう。何とも残念なことである。

posted by 松村正直 at 00:25| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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