評論集『短歌は記憶する』や「高安国世の手紙」の連載について話をしていると、「よく、あんなに資料を集めたねえ」とか「どうやって、あんなにたくさんの引用歌を見つけたの?」といったことを言われることが多い。そのたびに複雑な気持ちになる。
一つには、資料収集や引用歌の発見について感心されてもなあ・・・という思いがある。集めた資料や歌をもとにして、そこから何を見つけ、何を論じられるかが大切なのであって、資料や引用歌の収集自体に価値があるわけではない。
地図のところで書いた話にも共通することだが、例えば将来、短歌関係の資料(歌集、歌書、全集等)が大量にデータ化されたならば、「仁丹」の歌など検索一つで何十首でも見つけられるようになるだろう。そうなれば、私が本の中で引いた二十三首の「仁丹」の歌を見つけるのに要した何か月もの時間など、何の意味もなくなってしまう。だから、そのこと自体には何の価値もない。
でも・・・本当にそうなのだろうか?
本当に「何の価値もない」と思っているのなら、そうしたことに時間や労力を使えるはずもない。自分では資料の収集や引用歌の発見、それ自体に十分に価値があると思っているからこそ、やっているのである。
ただ、それは自分の胸の中の話であって、人に言うべき話ではない。だから人と話をする時には、「何の価値もない」と思うように心がけている。そして、そのたびに「複雑な気持ち」になるのである。
2010年12月13日
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