直接の理由は、新聞に載せる歌の取材ということであった。しかし、それだけでは十分な答にはならないだろう。池本は先のエッセイの最後を次のように結んでいる。
生死をかけた過激な闘争は戦後史の1ページ。金沢の歌人など幾人かの同行者は、何を感受したのか。なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう。
内灘へ同行した池本にさえ、「なぜ」に対する十分な答は出ていないことがわかる。40年経っても解けない謎として、それは池本の胸に残ったままなのである。
黒住が「作者は何のためにここを訪れたのだろう」と書き、池本が「なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう」と書くのには、わけがある。それは、高安と内灘という取り合わせが意外なものであったからだ。高安に似つかわしい場所であれば、そもそもこんな疑問は出てこない。
高安は政治的な行動とは一貫して距離を取ってきた人である。共産党員であった野間宏をはじめ、高安の友人には政治的な立場を明確にして、実際に活動に移す人も多かった。しかし、高安自身はそうではない。その高安が、なぜ、あの「内灘」に、というわけだ。
もちろん、当の高安が亡くなっている以上、その理由は永遠にわからない。あれこれ調べてみたところで、すべては推測の域を出ない。それでもなお、私はそうした疑問の一つ一つにできるだけ迫って、少しでも謎を解き明かしたいと考えている。たとえ40年前の出来事であっても、その時の高安の心境に寄り添うことくらいはできると思う。
内灘のことは来年2月号の「高安国世の手紙」で、少し触れてみたい。
内灘の話は、2月号掲載の「高安国世の手紙」の補足のような感じです。全然別の話を書いていたのですが、それが自分の中で思わぬところに結び付いたので、どうしようかと思ってここに書きました。