2010年12月10日

内灘砂丘(その4)

高安国世はなぜ内灘砂丘を訪れたのか。

直接の理由は、新聞に載せる歌の取材ということであった。しかし、それだけでは十分な答にはならないだろう。池本は先のエッセイの最後を次のように結んでいる。
生死をかけた過激な闘争は戦後史の1ページ。金沢の歌人など幾人かの同行者は、何を感受したのか。なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう。

内灘へ同行した池本にさえ、「なぜ」に対する十分な答は出ていないことがわかる。40年経っても解けない謎として、それは池本の胸に残ったままなのである。

黒住が「作者は何のためにここを訪れたのだろう」と書き、池本が「なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう」と書くのには、わけがある。それは、高安と内灘という取り合わせが意外なものであったからだ。高安に似つかわしい場所であれば、そもそもこんな疑問は出てこない。

高安は政治的な行動とは一貫して距離を取ってきた人である。共産党員であった野間宏をはじめ、高安の友人には政治的な立場を明確にして、実際に活動に移す人も多かった。しかし、高安自身はそうではない。その高安が、なぜ、あの「内灘」に、というわけだ。

もちろん、当の高安が亡くなっている以上、その理由は永遠にわからない。あれこれ調べてみたところで、すべては推測の域を出ない。それでもなお、私はそうした疑問の一つ一つにできるだけ迫って、少しでも謎を解き明かしたいと考えている。たとえ40年前の出来事であっても、その時の高安の心境に寄り添うことくらいはできると思う。

内灘のことは来年2月号の「高安国世の手紙」で、少し触れてみたい。
posted by 松村正直 at 00:39| Comment(2) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
興味深く読みました。ぼくも、池本さんから内灘闘争について資料をあつめてくれないかと言われたことがありました。なんで急にとおもったのですが、ほどなく、高安さんとのことがあったのだと思い至りました。2月号たのしみです♪
Posted by 荻原伸 at 2010年12月13日 22:41
僕も池本さんに頼まれて、初出の「毎日新聞」を探しました(笑)。
内灘の話は、2月号掲載の「高安国世の手紙」の補足のような感じです。全然別の話を書いていたのですが、それが自分の中で思わぬところに結び付いたので、どうしようかと思ってここに書きました。
Posted by 松村正直 at 2010年12月15日 01:48
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