俳句の総体は、宝石の網であって、その網目の宝石の一つ一つはおのれ以外のいっさいの宝石の輝きを反射し、以下これに準じて無限にいたるが、しかし、その中心、発光の最初の核は決して把握できない。西洋においては、鏡は本来ナルシス的なものである。人が鏡のことを考えるのは、そこに映して自分の姿を眺めるためである。だが東洋においては、鏡が空虚であるように見える。鏡は、象徴の空虚そのものの象徴である。鏡のとらえるものは、もう一つ別の鏡にほかならない。そしてこの反映の無限連続こそが、空虚そのものである。こういう事情であるため、俳句は、わたしたちの身の上に決して訪れてくることのなかったものを、わたしたちに思いださせる。俳句のなかにわたしたちは、根源をもたぬ繰りかえし、原因のない出来事、人間のいない記憶、錨索(いかりづな)を離れた言葉を認識するのである。
長い引用になってしまったが、これを読んで思い出したのは永田和宏の「問」と「答」の合わせ鏡論である。
歌を作るという行為は、己れが問うた「問」に対して、自ら答えるという作業に他ならず、作品はかならずそのような二つの精神作用の痕跡をとどめている筈である。しかもその「答」が単なる認識の披歴にのみ終わらないためには、その「答」がさらに新たなる「問」となてはじめの「問」そのものを問いかえすような契機が考えられなければならない。
「問」と「答」の無限数列、その合わせ鏡の無限に続く扉の奥にきらりと光るものこそ、予感しつつ作品以前には決して識ることのかなわなかった真実であるに違いないのだ。
永田さんがバルトを踏まえていたというわけではないだろう。それでも、こうして二つの論が似ているということには、非常に興味を惹かれるものがある。
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