この号には「高安国世入門 秀歌六〇首鑑賞」という企画があり、小林幸子・三井修・栗木京子・吉川宏志の四名が15首ずつの鑑賞を書いている。
その中で吉川さんが
たえまなきまばたきのごと鉄橋は過ぎつつありて遠き夕映 『一瞬の夏』
という高安の歌について、次のように記している。
車で鉄橋を通っているときの感覚である。鉄の欄干のあいだを高速で抜けるので、ちかちかちかと目まぐるしく影が視野をよぎっていく。それを「たえまなきまばたきのごと」ととらえたのがじつにみごとな発見である。私は電車で鉄橋を過ぎるたびにこの歌を思い出す。(…)余談だが、最近出た島田幸典の歌集『no news』に、
鉄橋の格子のかげは羽ばたけり非東京人わが額(ぬか)の上に
という歌がある。たまたま素材が似たのだろうが、表現の違いによって印象は変わってくるわけで、どちらもおもしろいと思う。(…)
今回、この文章を読んで「あっ」と思った。今年の「塔」1月号の作品連載の吉川さんの歌を思い出したからだ。
トランプの切らるる迅(はや)さ鉄橋のすきますきまに冬の海輝る
「海上の橋」という一連にある歌なので、瀬戸大橋を電車で渡っている場面だろう。たしか歌会にも出された歌で、好評だったのを覚えている。
こうして6年前の文章と今年の歌とを重ね合わせてみると、吉川さんが鉄橋を通る時の感覚をどのように詠むかという課題に、ようやく答を出したのではないかという気がしてくる。もちろん、6年間ずっと考えてきたわけではないだろうが、潜在的な意識の中で歌の生まれる土壌は育まれていたのではないだろうか。
高安の「たえまなきまばたきのごと」、島田の「羽ばたけり」に対して、吉川の「トランプの切らるる迅さ」。こうして並べてみると、一首の歌が形となってできあがるまでの長い時間というものが、とても印象深く感じられる。