短歌を作る人は愛する肉親を亡くすと、それはまずやはりその悲しみを少しでも癒すべく挽歌を作る。
という一文から始まり、母親を亡くした堀本吟さんという方の「なりゆきをきれいにかこつそのようにはわたし挽歌をうたいたくない」という一首を引いて、次のように述べる。
親への哀悼の気持ちは本来自分だけのものだ。それを簡単に人には曝したくないと思う人は多いだろう。曝せば曝すほどその感情はどんどん安っぽくなっていくかもしれないし、しかもその挽歌がきれいに出来ていれば出来ているほどなおさらで、嘘っぽいものにすらなりかねない。
非常によくわかる内容である。ことは肉親を失った場合だけに限らないだろう。「塔」10月号で次の一首を読んだ時にはハッとしたものだ。
流麗な言葉に飾らるる挽歌など読みたくはなしいずれくる日に 永田 淳
題に「八月十日頃」とあるので、河野さんが亡くなる前々日頃の歌であろう。こうした気持ちも非常によくわかる。
もちろん、挽歌を詠うなと言っているわけではない。人にどう思われようと詠いたいと思えば詠えばいいのだ。ただ、こうした堀本さんの歌や永田さんの歌に含まれる思いに耐えられるだけの歌であるかという点は、自問自答する必要があるだろうと思う。挽歌が単なる自己満足に終らないにはどうしたら良いのか。そんなことを考えるのである。
拙作へのコメント、有り難く拝読。自作について釈明する訳にもいかなかったので嬉しいことでした。
挽歌というのは、本当に難しい問題だと思います。今日も再校をしながら、あまりの挽歌の多さに少々複雑な気分になりました。