河野さんが亡くなって以降の「河野ブーム」について述べた後で、そのブームについて次のように分析している。
河野さんの歌は時代への関心や社会との関係性、といったものからは遠い。言い換えればこれは内向する今の世相に強く響くものがあったのではないか。河野さんの個人の思いとは別に、そのブームは内向きな世相の反映でもある
本当にそうだろうか?
河野さんの歌に人気があるのは、何も今に始まったことではないのに、なぜ「内向の世相の反映」などと言えるのだろう。それに、いわゆる時事詠や社会詠を詠むことだけが時代や社会への関心の証だと思っているのなら、それは大きな間違いではないか。
先に引用した部分に続いて筆者はこう書いている。
最近、心に残った言葉は、ノーベル化学賞を受賞した根岸英一・米パデュー大特別教授の「若者は海外に出よ」だ。そう、外国に出てもまれよう。己を知り、日本の良さも欠点も過不足なく、等身大で知るには、世界の中で日本を相対化することが大事だ。
筆者が「内向きの世相」という言葉をネガティブな意味で使っているのは、この部分からも明らかだろう。なぜそうしたネガティブな文脈の中で河野さんのことを取り上げる必要があったのだろうか。
こうした文章が、他でもない毎日新聞(河野さんは長年毎日歌壇の選をしてきた)に載ってしまうということに対して、私は憤りを通り越して強い悲しみを感じる。
この記事に対する見解をぜひ、毎日新聞「詩歌の森へ」酒井佐忠さんに伺いたい。
(コラム)の表題が「金言」?ううむ)
ただ、あちこちの新聞のコラム欄を読んでいると、身近な話をざっと紹介した後で、自分の主張したい話へかなり強引に話題を持って行くというのはよくあるパターンなので、あまり気にしても仕方がないのかなとも思っているところです。
氏によれば、河野裕子さんが亡くなって以降、新聞各紙の追悼記事、歌壇欄俳壇欄の文芸欄に、その死を悼む投稿歌があふれる状態は「河野ブーム」であると見る。河野ブームであるから「専門編集委員」の目には価値があるものと見える。まことに恐れ多いことだ。
「一方で河野さんの歌は時代への関心や社会との関係性、といったものからは遠い。言い換えればこれは内向する今の世相に強く響くものがあったのではないか。河野さんの個人の思いとは別に、そのブームは内向きな世相の反映でもあると私は見ている」。
お前さんがどう見ようと鴉の勝手である。これを称してなんというか。大方専門馬鹿というのではないか。
ブームなどとは無縁の、河野裕子の歌を長い間読んできたものには、死んだからどうというのではないのである。この先に河野の歌がないのを心から悲しむばかりだ。
そうですね。私も「河野ブーム」という捉え方自体に違和感を覚えます。
河野さんの歌がこの先にないことは残念ですが、歌集として残された6千数百首の歌を、これからも度々読み返していきたいと思います。