小さいうちはいいのだが、大きくなると微妙である。幸い、息子のほうは私の歌集を読んでいない。読んだら絶対にキレるだろうと思うと戦々恐々だ。歌になったものは、むろんモデルとイコールではない。違うんだよ、これは歌なんだよ、と言ったところで納得しないだろう。こんなふうに見てたんだね、あんたは、と、かなりまずい局面になりそうなのだ。娘だって決して機嫌は良くない。やはり書くほうというのは、一方的な加害者なのである。今回、そのへんも多少考慮して選んだつもりである。
「NHK歌壇」2003年7月号
「一方的な加害者」というのは、なるほどその通りであろう。なにしろモデルになった側は、作品の中で反論することができないのだ。
この自選五十首には、例の「いじめられに行く」の歌は入っていない。「多少考慮」の末に省かれたのか、もともと選ぶほどの歌だと思っていなかったのかはわからない。
子ではなく父を読んだ歌で、自選五十首に入っているものがある。
リチャード三世のふりして寄れる父の掌(て)が肩を把みぬ顔を歪めて
花山多佳子『樹の下の椅子』(昭和53年)
花山の第一歌集に入っている歌である。ここにも無論、歌を読むことの暴力性は働いている。そして「顔を歪めて」と描かれた父は、三十年以上が過ぎて、次のように詠われることになるのだ。
筆談をせむと思へどリア王のごとくに父は目を閉ぢてをり
「短歌研究」2010年10月号
死を前にした父の姿である。ともにシェークスピア劇の主人公に擬せられた父の歌二首を並べてみることで、その父に対する作者の愛憎の入り混じった思いを、深く感じ取ることができるように思う。