2010年09月19日

いじめられに行く(その1)

  学校へいじめられに行くおみな子の髪きっちりと編みやる今朝も
        花山多佳子『草舟』(平5)

 初めてこの歌を読んだ時、「学校へいじめられに行く」という表現に驚いた。これが「学校でいじめられている」であれば、何とも思わなかっただろう。「いじめられに行く」という強烈な言い方に、短歌作者としての冷徹なまなざしを感じたのである。

 後に、花山周子さんが「初めて出会った歌」というコラムでこの歌について書いているのを読んで、自分なりにいろいろと思うところがあった。
たまたま見たのだった。私はわざわざ学校にいじめられになど行ったことはない。怒りで、しばらくは母と口が利けなくなった。作品をつくる人間ってなんて嫌な生き物だろうと思った。今でもこの歌を読むと虫唾が走る。ただ、今の目で冷静に読めば、偽善的な駄作に過ぎず、母には珍しい歌であったことに気付く。他の歌に怒りを感じることはないのである。     (「短歌研究」2008年11月号)

 このストレートな怒りの表明にも驚いたのだが、気持ちはよくわかる。このように詠まれて喜ぶ子どもはいないだろう。短歌を詠むということは、常に暴力的な側面を持っている。

 でも、この歌が偽善的な駄作とは思わない。「わざわざ学校にいじめられになど行ったことはない」というのは、その通りだろうけれど、これは修辞というものである。歌集には他にも

  苛められている子を一日遊ばせぬ古墳隆起せる〈風土記の丘〉に
  帰校する群のなかにて浮き上がる風船のように子の顔見えつ

といった歌が載っているが、やはり冒頭の歌が一番印象に残る。

posted by 松村正直 at 16:35| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。