花山多佳子『草舟』(平5)
初めてこの歌を読んだ時、「学校へいじめられに行く」という表現に驚いた。これが「学校でいじめられている」であれば、何とも思わなかっただろう。「いじめられに行く」という強烈な言い方に、短歌作者としての冷徹なまなざしを感じたのである。
後に、花山周子さんが「初めて出会った歌」というコラムでこの歌について書いているのを読んで、自分なりにいろいろと思うところがあった。
たまたま見たのだった。私はわざわざ学校にいじめられになど行ったことはない。怒りで、しばらくは母と口が利けなくなった。作品をつくる人間ってなんて嫌な生き物だろうと思った。今でもこの歌を読むと虫唾が走る。ただ、今の目で冷静に読めば、偽善的な駄作に過ぎず、母には珍しい歌であったことに気付く。他の歌に怒りを感じることはないのである。 (「短歌研究」2008年11月号)
このストレートな怒りの表明にも驚いたのだが、気持ちはよくわかる。このように詠まれて喜ぶ子どもはいないだろう。短歌を詠むということは、常に暴力的な側面を持っている。
でも、この歌が偽善的な駄作とは思わない。「わざわざ学校にいじめられになど行ったことはない」というのは、その通りだろうけれど、これは修辞というものである。歌集には他にも
苛められている子を一日遊ばせぬ古墳隆起せる〈風土記の丘〉に
帰校する群のなかにて浮き上がる風船のように子の顔見えつ
といった歌が載っているが、やはり冒頭の歌が一番印象に残る。