最近の歌集は300〜400首くらいのスマートなものが多いが、この歌集は違う。分厚い。3センチ以上の厚みがある。歌の数は600首あまり。『○○集』という歌集名も今風ではなく、近代短歌を思わせる。
ちなみに筑摩書房の『現代短歌全集』を見てみると、第七巻(昭和7〜11年)にこのタイプの歌集名が最も多い。『青牛集』『紫塵集』『山谷集』『山花集』『苔径集』と、17歌集中5歌集を占めている。
山門を出で来し揚羽とすれちがひ入りゆく寺に夏はふかしも
つぎつぎにたばこ吸ひ吸ひうたつくる精錬化学工業の如
自転車に乗らず曳きつつ人きたり 馬ならば蹄鉄がはづれて
百頭のくぢらあへなく座礁して秋の浜べにかぜふきわたる
嫁入りに母がもてこし鏡台は風のかよへる部屋にのこれり
黒錆(くろさび)の鉄のくさりに閉ざされし外人墓地よりあゆみをかへす
牛乳を四合も飲みて青年のごとくになりぬ山の牧(まき)場(ば)に
掘り出されたりしばかりに永遠にうしなはれたり北京原人の骨は
嫁ぎたる子より電話きて妻のこゑ灯(とも)るがにあかるくなれるかなしも
つかひみちなき七円切手いかにせむ泳ぐ金魚を額(ひたひ)に貼らむ
日常生活を描いて、そこにユーモアや哀しみを感じさせる歌が多い。それは自ずから人生的な感慨へもつながっていく。雑学ネタも豊富にあって、ついつい引き込まれてしまう。
30年以上勤めた高校を退職する際の歌や97歳になる母親の入院や介護を詠んだ歌も、この歌集の特徴と言えるだろう。
2010年6月28日、砂子屋書房、3000円。
「小池光が好きです」と私も言っています。
でも、そう言うときに後ろめたさみたいなものがかすかにあって、何だろうかなあと思っています。
これまでの短歌史というのは、言ってみれば「短歌進化論」だったでしょう。その中では常に最先端を求めることが歌人たちには要求されてきた。
その点、小池さんの歌というのは別に最先端でもないし新しくもない。でも、短歌のエッセンスがぎゅっと詰まっている。そういう歌がやっぱり好きだと、そろそろ公言しても良い時期になったんじゃないかと思います。
小池さんの作品は最先端で新しいのだと思っています。
あの文体はまさにup to date!
古いことが新しいとかいう文脈で言っているわけでも
ないです。
>短歌のエッセンスがぎゅっと詰まっている。そういう歌
>がやっぱり好きだと、そろそろ公言しても良い時期にな
>ったんじゃないか
正直、僕は賛成できないなあ。
というか、小池さんの歌が最先端だと感じられる時代になったということではないのかなと、僕は思っているのですが。
小池さんって評価されながら、その作品の読み筋が
読者によってけっこう違うような気がするんですよね。
読みの詳細を検討する機会があってもいいんじゃ?
「小池さんの歌が最先端だと感じられる時代になった」という
のには、やはり反対なんです。本当は例歌をあげて細部を検討
しないといけないけれど、あの疑似近近代短歌文体というねじ
れ方は、小池自身が必死の試行錯誤のもとに時代の先端の文体
として開発したものであると思うんです。自分で時代のモード
を作ったわけであり、彼が従来から一貫して作っていた作品に
時代が追いついたという感じはないです。
あ、またからんでしまいましたが、近々にどこかでお会いする
ことがあると思いますので、その時にでも。
小池さんの文体が「必死の試行錯誤のもとに」生み出されたという点については、異論ありません。近代歌人が素朴に(←こう言い切ることには本当は抵抗があるのですが)近代短歌文体を用いていたのとは、まるで違うと思います。
そのことに関しては、「団地暮らし、感想」というエッセイの中で、小池が一軒家(=近代)に対して団地(=現代)の暮らしが「まるで芝居のセットのように見える」「現実ではなく演技として切り抜ける」と書いていることが、ヒントになる気がしています。そこに、ねじれが生じているのではないでしょうか。
またまた長くなってしまいそうです。
今度お会いした時にでもじっくりと。
一度、「小池光を語る会」でもやりたいですね。
だっけという感じになってしまいましたが。
「団地暮らし、感想」というエッセイ、まるで自作について解説
しているようですね。歌集のあとがきも、いつもマニュフェスト
だなあとおもいつつ読んでいます。
ではでは〜。