
5月17日(土)に第19回明星研究会「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」が開催されます。テーマは「Beyond Meiji ―平出修・山川登美子・石川啄木」。
私も「評論・詩・短歌から読み解く啄木晩年の思想」という題で講演します。啄木の晩年におけるクロポトキンからの影響について主に話す予定です。
参加費は2000円。会場(武蔵野商工会議所「市民会議室」)とZoomの両方あります。ご興味のある方は、ぜひご参加ください!
https://www.myojo-k.net/
金之助の「暮れよどむ街の細辻に……」が最高点の一つにはいった。彼はそのほかに、「苦しきことをこの上はわれ思はざらむ犀川の水はやけにせせらぐに」というのを出していてやはり問題になったが、「やけに」がどうかという評に対して、「いや、『やけに』なんだ!」と大声を出して一座を笑わせたりした。
安吉たちが今までやってきた歌会では、採点の最高点を得た作品から順に批評をするのが常だった。最高点のものについては、ほめるものも反対するものも総じてムキになった。そうしてそのムキになった批評のレベルが、そのまま点のあまりよくない作品にも及ぼされて行った。
まして私は上手な小説書きではない。批評家もそう言っていて私も認めている。ただ私は、上手下手ということを基本的なことだとは思うものの、上手でも下手でも自分のものを書きたいと思っている。(…)上手ということはこれからも学びたい。しかし下手にしろ自分のものを書きたい。
昭和になって京都市は「大京都市」をうたって周辺町村の編入を進めていく。当然のことながら伏見町も対象になった。しかし、伏見町は吸収合併ではなく、あくまで対等合併にこだわった。伏見市への昇格はそのためで、昇格からわずか700日後の1931(昭和6)年4月に伏見市は周辺の深草町や下鳥羽村などとともに編入され、広大な伏見区が誕生した。
柊二にとって「たたかひ」は自分に関わりのない他人事ではない。同時に、その帰趨を主体的に決められる現象でもない。彼の身体は「たたかひの終りたる身」でもなく「たたかひを終へたるわが身」でもない。宙ぶらりんで、置き所のない「たたかひを終りたる身」だったのである。
「信頼」のような、「信じる」(他動詞)と「頼る」(自動詞)が混合した漢語の場合、「信」に重きを置いて助詞「を」を入れるか、「頼」に重きを置いて助詞「に」とするか、悩ましい。
現在、目の前で進行してゆく事態をどう捉えるべきなのか。現在進行形という西欧語伝来の時制表現を、従来の文語体系のなかでどう表現したらいいのか。圧倒的な西欧語の流入に際会して、近代の歌人たちは、そのような悩みのなかにいたのだろう。
・やる気のない「て」
・憧れの「らむ」
・いまいましさの「など」
・不安の滲む「む」
・勢いの「も」
・一回性の「と」
・自己志向的な「の」
日月潭は海抜約二千二三百尺だから、一たん日月潭におびきよせた水を、そこから一度に下へきって落す。即ち落差が二千二三百尺。その人工の滝を動力にして電力を起す。世界でも珍しい工事で、たった一つスイスの山中に適例がある。
惜しいことに、晴れの蕃衣の下にメリヤスを――しかも最新の奴を着込んでいる。メリヤスなど着ているのは老区長とこの若者だけだ。ここではメリヤスは宝に違いない。しかし、このメリヤスを着込んでなきゃ、私はこの若者を怖ろしく思ったろう。
胡蘆屯とは言わば瓠(ひさご)が丘とでも訳すべき面白い地名なのだが近く役人共の猿智恵で豊原と改称される筈になっているという。車室に落ちつく間もなくA君はもう議論すきを発揮して駅名改称可否論を論題に持ち出したものである。
私は或る文明国の政府が、当時の一般国民の常識とややその趣を異にした思想――それによって一般人類がもっと幸福に成り得るという或る思想を抱いていた人々を引捉えて、それを危険なる思想と認めて、屢々その種の思想家を牢屋に入れ、時にはどんどん死刑にしたのを見聞したこともある。
京都仁丹樂會がこれまでに存在を確認した琺瑯約1550枚のうち、95%以上が「上京區」と「下京區」の表記だった。これは何を物語っているのか。琺瑯「仁丹」のほとんどは京都市が上京区と下京区の2区しかなかった時代に設置された。
現在の地図と昭和4年の地図を見比べるとよく分かる。戦後、堀川通が「建物疎開」の跡地を利用して整備された際、段階的に拡幅する中で、並んで南北に走る醒ヶ井通や西中筋通を、広い歩道として飲み込んでいた。つまり「仁丹」は。大通りに吸収されて、その名が消えてしまった小通りの記憶をしっかりと刻み込んでいるのだった。
現在の町名は「北区紫野十二坊町」だが、かつて「鷹野」と呼ばれていた時期があることも示す。興味深い異色の1枚になっている。消えた地名を今に伝えるのも「仁丹」の魅力の一つと言える。
我々は普通、韻文は人工的で散文が自然だと思ってる。だけど歴史的には逆で、他の文化圏もだいたい同じですが、最初文学が生まれるのは韻文なんですね。(納富信留)
いいネタだけど、この人じゃなくても成り立つと思われたらそれはよくなくて、多少雑でもその人でなきゃいけないもののほうがずっと面白い。(サンキュータツオ)
身体や感情を消すことが戦争への言葉の参加だったんだと思います。だから戦争が終わったときにまず言葉がやったことが身体を取り戻すということ。(川野里子)
伝統派は比喩としては使わないんですよ。比喩的に用いた時には季語として働かないからです。(井上弘美)
私は、近代以降の俳句も短歌も純粋な伝統詩だとは考えていないのです。欧米の詩と融合したと思っています。(堀田季何)
西洋ではヌード彫刻は外にはない。あれは日本特有の現象で、駅前に裸像があるのを見て西洋人はびっくりするんです。ヌードを西洋文化そのものだと思って愚直に増殖させてしまったのが日本の近代で、これは大きな誤解です。(宮下規久朗)
山陰道は京都山城から丹後を通って西へ行く。山陰と北陸は直接はつながっていないんです。近代の鉄道ができても北陸本線と山陰本線を乗り換えようとしたら一旦、京都に出ないといけない。(三浦佑之)
言葉は人間が生んだものだけれども、その人間をも全て制してしまう力がある。特に文字に書かれた言葉の力ですね。スペインがかつての大帝国時代を築き上げることができたのもスペイン語という言葉の力です。(高野ムツオ)
三月八日 月曜
スバル三号とゞいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!
北洋におけるサケ・マス漁、カニ漁や南洋におけるカツオ漁同様に、捕鯨は日本の水産業の近代化を語るうえで無視できない産業である。北洋にしろ、南洋にしろ、南氷洋にしろ、それらはいわゆる手つかずの「フロンティア」漁場だったのであり、そこに経済的要因と軍事的動機がかさなり、国策的に大資本が投入され、開拓が促進された。
わたしは鯨で育ったようなものです。鮎川では、タンパク源といえば、鯨でした。カレーライスも、鯨肉と鯨の皮でした。(和泉諄子)
昭和四一(一九六六)年のソーセージの場合です。原料は、鯨が三五%、鮪が五%、カジキが五%、鱶が一〇%、それから底引きのものが二〇%で、アジが二五%でした。(常岡梅男)
一般に「家庭用マーガリン」の原料が動物性油脂から植物性油脂に切りかえられるようになったのは一九六〇年代半ばとされている。(…)わざわざ「純植物性」を強調するあたりは、暗にそうではないマーガリン――鯨油入りマーガリン――の存在を想起させる。
私達は、父の小説の中の一つによって永遠に、「狂人染みた女から生れた系族」という感じを受け、永遠にそれに纏わられて生きて行かなくてはならない。
/森茉莉『父の帽子』
「あれだけは全集に収めないでおくれ。どうか、私の遺言だと思って」
「わかってるよ」
そう言えど母はこだわり続ける。(…)
「お母さん、約束する。『半日』は載せさせない」
/朝井まかて『類』
言語学も「人間とは何か」の解明を究極的な目標としてかかげています。言語の分析を通して、「ヒト」という生物学的な種について洞察を得る――これは、現代言語学に通底する信念です。
俵 今、短歌は目で読むことに重心が傾いている。でも短歌は本来的には声に出して、耳で聞かれていたものです。「歌」というくらいですから。文字もない時代から人々は聴覚を頼りに歌を詠み、聴いてきました。
M たとえば「半端ないぜ」と「have a nice day」という言葉を揃えてみる。日本語の「はん」を圧縮して一音節とし、「ない」も1音節に押し込める。すると、「はん」「ぱ」「ない」「ぜ」の4音節にまで密度を高められる。「have a nice day」と同じ音節数です。
山寺 声作りをする上で大事なのはキャラクターのビジュアルと声の一体感です。「このきゃらならばこの声しかありえない」とうくらいまで登場人物と声のマッチングを考え抜きます。
川添 「タピる」という言葉には、「私は『タピる』という表現を使う側の人間なんですよ、つまり若い世代の人間なんですよ」というニュアンスが含まれていますよね。(…)自分のアイデンティティの表明や他人との関係性の匂わせをしている。
川原 子音も母音も駆使して独特の響きをもたらすという手法は、短歌もラップも同じです。先入観なく日本語ラップと短歌を客観的に比較したら、このふたつはそこまでかけ離れた表現方法ではない。
鳥の目の司会者と蟻の目の司会者がいる。鳥の目の司会者は時間配分が上手く、公平で軽快、バランスがいい。蟻の目の司会者は、重要な問題に立ち止まって深めることに長けている。(…)優れた進行は、適宜往き来して両方を使い分けている。
近代文学史を考えるとき、わたしたちは新しく加わったもの、前代になかったものに注目し、その輝きを時代のものとして称賛するのが一般的である。(…)明治三十年前後の短歌潮流の変動の中で、一葉の歌が「旧派」のそれとして、ほとんど顧みられなかったのも頷ける。
読者は、並べられた言葉の順番から逃れられない。短歌一首でいえば、初句を読むときに結句に目を走らせるということは出来なくなる。否が応でも、作者が指定した順番通りに言葉を辿る。
洋服と着物の大きな違いは何か。端的に言えば、洋服はクローゼットにぶら下げておき、着物は畳んで箪笥にしまうことだろう。(…)洋服は、着る人の体形に合わせて服地を立体的に縫い合わせてあるから、平面に還元するのが難しく、着物はもともと平面でできているものを人体に纏って使うからである。
アンコールワットの回廊を、外側から内側へと数えることは、国内の神社を参拝するときに潜る鳥居を、神殿に遠いところから、つまり参拝者からみて手前から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と数える私たち日本人にとって、自然なことである。しかし、西洋では、数える順番が逆転するらしい。
作歌するとき、モノやコト、また対立や違和や異物、訳の分からない不気味というような夾雑物を排し収斂してゆくと、どこかの時点で、ドアがぱたりと閉まるように、外界・他者・社会・抵抗・疑問などの摩擦のない自己閉塞世界へ入ってしまう。
剝かれたる梨のあかるさ身のうちに蜜をとどむるちから満ちつつ
読み終へし手紙ふたたび畳む夜ひとの折りたる折り目のままに
犬飼ふを勧められたる夕べよりしづけさはしなやかに尾を振る
鳥去りて花粉散りたる花の芯ながく呼吸をととのへてゐる
触るるなく見てゐしもののひとつにて海は合掌のごとく暮れゆく
魚跳ねてうをちひさきを また跳ねてみづのふかきを港におもふ
鉄橋とすすきまじはる川辺より四肢冷えきつて立ち上がりたり
風みえて欅散りをり木版のごとくかするる西陽のうちを
窓鎖して朴の花より位置高く眠れり都市に月わたる夜を
くちなしの香るあたりが少し重く押しわけて夜のうちを歩めり
日暮れにはまだ時ありて蜂は音、蝶は影とぶあざみのめぐり
胸骨を手放す時刻 頭(づ)を垂れて生への門を閉ざせる時刻
揚雲雀喉ひらくとき体内にひとすぢ初夏の陽は至りゐむ
はるかに曳かれゆきたるごとく雪の上(へ)に累々と人の跡つらなりぬ
みづからの顔をおほかた裂きながら青鷺は大き魚のみくだす