
4月29日(祝・火)の「神戸短歌祭」で講演をします。
題は「見えないものの詠い方」。
どなたでも参加できますので、ぜひ会場にお越しください。
参加費は1000円です。
次の弟の不律が死んでから杏奴が生れて、それが遊び相手になるまでの八年位の間、私は一人だった。兄は大きくてたまにしか相手にならない。女中と遊ぶことは禁じられている。唯一の話し相手であった父は、朝から薄暗くなるまで何処かへ行っていて居ない。母は小説を読んでいたり、考え事をしていたり、戸棚から行李を出して片づけものをしたりしていた。
私は父の顏を思い出す。微笑している顔、考える顔、しかめた顔、どんな場合の顔を思い出しても、父の顏には不愉快な影がない。浅ましい人間の心が覗いていた事がない。父は人間の「よさ」を持った稀な人間だった。
母は厳しかった。いつもきっとして、「まりちゃん」と呼んだ。母に呼ばれると、いつもぐにゃりとして、どこかしらんによりかかったりしているような私も、直ぐに起き上って、ピアノを復習(さら)ったり、勉強をしたりしなくてはならないようになるのだった。
時々、観潮楼歌会というのがあって、二階の観潮楼に大勢の人が集まって、夜遅くまで賑やかに笑ったり、話したりしていた。(…)私は父の傍へ行って坐り、紙を貰って字を書いたり、絵を描いたりした。人々は、何か考えたり、書きつけたりし始める。
森先生の奥様は美しい人だよ。上品な二十八九位に見える美しい人だよ。令嬢は一人で六歳。茉莉子といふ名から気に入る。大きくなつたらどんな美人になるか知れない程可愛い人だ。一ケ月許り前からピアノを習ひに女中をつれて俥でゆくさうで、此頃君が代を一人でやる位になつたさうだ。羅馬字でMARI,MORI.と書いて見せたりする。可愛いよ。
二時半頃、与謝野氏と平野君と突然やつて来た。平賀源内の話などが出た。一時間許りして、三人で千駄木の森先生を訪うた。話はそれからこれと面白かつた。茉莉子さんは新らしいピヤノで君が代を弾いたり、父君の膝に凭れたりしてゐた。
一月二十二日
起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シヤボン箱に手が喰付いた。
一月二十三日
(…)二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つ抱いての寒さは、何とも云へぬ。
一月二十四日
寒い事話にならぬ。(…)
机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。
1月22日 最高−12.8℃ 最低−22.0℃
1月23日 最高− 8.2℃ 最低−26.1℃
1月24日 最高− 8.5℃ 最低−29.3℃
雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(?)を買って来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし(…)
こほりたるインクの罎(びん)を
火に翳(かざ)し
涙ながれぬともしびの下(もと) 『一握の砂』
この本は、なぜわたしに「死にたい」が毎日やってくるのか、その理由を探すために、目的地も見えぬなか歩み出した旅の記録だ。わたしには書くという作業が必要だった。必要というより必然だった。書くことを通してでしか、〈自分〉という未踏の地に足を踏み入れる勇気を保つことはできなかった。
食べること、性的なことの共通点は、どちらも人の営みの中心にある、ということではないだろうか。つまり生きていることに直結していること。そしてこの二つはどちらも、自分ではないもの(他者)を受け入れて、自分と融合させることだ。
人が謝るとき、本来の許しを求めることを大切にしないで、謝るために謝ることが存外行われているんじゃないだろうか?許しを求めるということは、相手の気持ちを十分に想像して、そこに自分の気持ちを沿わせることだろう。
「勿論、実際、ポキポキ折ったわけじゃないだろう。しかし、こういう時の、譬(たと)えに使うのに《マッチ》は、持って来い――だな。(…)」
美希も、無論、マッチがどういうものか知ってはいる。しかし少なくとも、この一年、使ったことはない。
「やり場のないいらいら。今の子なら、一本の歯磨きを、《えいやっ》と、すべてひねり出す方が――分かりますかねえ」
「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
穂村弘『シンジケート』
しなくても良い前泊に夜の窓あけてビジネスホテルの季節
猫老いて店主も老いてどちらかが死ぬまでつづく瀬戸物屋さん
ベランダの夜にやもりと佇んでたがいに気付かぬ振りをしていた
満月を半月にする夜行バス 6Pチーズをつぎつぎ食べて
商談をコメダですれば豆菓子は食べず互いにかばんへ入れて
ひとりでいるときのわたしを私だとおもう師走に独りで居れば
気がつけば小説だったというような雨がそのうち本降りになる
でたらめに路地を歩いて川に出れば川に沿いたい初夏のこころは
だとしても。ごく軽度だとぽつぽつと毀れた家族がはま寿司にいる
地下なのにスロープがある 何もかも思い通りになんてならない
ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。
カプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐた
しかし、奇妙なことに、カプスの書いた手紙に対する関心が生じることはなかった。(…)そしてここからも長く続く伝説が生まれた。つまり、カプスはリルケに求められた詩人になる使命を果たすことができず、それゆえに大詩人に宛てた彼の手紙は公式には「残っていない」という伝説である。
これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。それだけにリルケの高潔な生涯は、ますます僕たちに力をもって迫ってくるのである。孤独などを今どき持ち出すのは、時勢にかなわないことかも知れぬ。だが孤独を知らぬ文学者とは、そもそも何者であろうか。それ自身実りのない孤独を、あのように豊穣な孤独にまで持ち上げたリルケを、僕たちはいつまでも忘れることができない。
「リルケの手紙のおかげで、受け取っただけなのに、私は自分で書いたものによってよりもずっと有名になってしまいました。」
京都ドイツ文化研究所講師として京都へ戻ったドイツ文学科の先輩、大山定一を訪ね、尊敬と親愛の念を抱く。大山を中心とする独文卒業者たちの研究同人誌『カスタニエン』の同人となる。
僕はこなひだ京都に滞在してゐたとき、或日、独逸文化研究所にO君を訪ねて行つたことがある。O君はまだ来てゐられなかつたので、僕はしばらく大きな応接間で一人きり待たされてゐた。――僕はそこでぼんやりと煙草を二三服したのち、何気なく傍らの卓子の上に置いてあつた独逸の新聞の束を手にとつて、ばらばらとめくつてゐると、それへ毎号絵入小説を連載してゐる作者の名前がどこかで見覚えのあるやうな気がしてきたが、そのうちその小説の第一回の冒頭にその作者のことが写真と共に小さく紹介してあるのを見ると、それはリルケがあの有名な手紙を書いて与へた往年の若き詩人――フランツ・クサヴェア・カプスなんだ。あのカプスがいまはこんな絵入小説を書いてゐるのか、と僕はしばらく自分自身の眼を疑つた。が、まさしくカプスだ。もつとも、あの「若き詩人への手紙」の序文のなかで、カプス自身、生活のためにリルケが彼に踏みこませまいと気づかつてゐたやうな領域へいつか追ひやられてしまつてゐるのを嘆いてゐたことを読んで知つてはゐたが、――そのカプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐたが、そのカプスがいまはこんな仕事をしてゐるのか、と思ふと、僕はそれを拾ひ読みして見ようなんていふ好奇心すら起らず、ただなんだか胸の痛くなるやうな気がしたばかりだつた。
そのうちにO君が漸く来たので、それを見せるとO君もそれを知らずにゐて、一驚して読んでゐたが、そんなカプスのことから僕達の話はいつかリルケの方に移つていつた。僕なんぞよりもずつとよくリルケを読んでゐるO君にいろいろな話を聞いてゐるうちに、自分のリルケの本といへば殆ど全部其処に置きつ放しにしてある山里の方が変になつかしくなつて、僕はなんだかかうやつて京都や奈良をぶらぶら歩きまはつてゐるのに一種の悔いに似た気もちさへ感ぜられてきて仕方がなかつた……
この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。
ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。これは悲しむべき事実である。たとえどのような生活の労苦があったにせよ、これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。
あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。
孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。人間から人間への愛、これこそ私たちに課せられた最も困難なものであり、窮極のものであり、最後の試練、他のすべての仕事はただそれのための準備にすぎないところの仕事であります。
本を書くために二度職を失った。書類上は一身上の都合で、となっている。つまり自己都合退職であるのだが、実質的には短歌都合退職であった。評論を書きながら仕事を続けていたら食べたものの三分の一が胃から出てくるようになった。いまは傷病手当と、連載の原稿料で暮らしている。初の単著である『はじめての近現代短歌史』(草思社)はほとんど無職の期間に書いたようなものだ。
明治から昭和の戦前にかけて、日本から主にアジアに出て体を売った娼婦はからゆきさんと呼ばれた。ちなみにアメリカで体を売った娼婦たちのことは、あめゆきさんと言った。当時、日本人の女性が海外で体を売ることは珍しいことではなかった。
その地図では、アイヌが暮らした場所を、「\村(えぞむら)」と記している。地図によれば、弘前藩の領地には五ヶ所の\村があった。ケモノ偏に犬とは人間ではないようで、何ともひどい呼称だが、江戸時代のアイヌに対する感覚が如実に表れている。
五島列島は東京を中心とすれば、日本の外れとなってしまうが、東シナ海というアジアの海の回廊を中心にすれば、古代から日本の玄関口であった。その回廊によって、キリスト教も戦国時代の日本へと伝わった。
「札仙広福」という言葉がある。東京、大阪、名古屋の三大都市圏に次いで、札幌、仙台、広島、福岡の4都市が、地方としては群を抜いているためである。
90年頃の教科書までは、更新世は洪積世、完新世は沖積世と呼ばれていた。
現在の50歳くらいのひとを境に知っている、知らないが分かれるものに「忠臣蔵」がある。
日本全国での果実の収穫量は、30年前に比べて、ほとんどの種類で減少している。93年比で21年の収穫量は、リンゴ0.65倍、ミカン0.50倍、ブドウ0.64倍、モモ0.62倍、梨0.48倍だ(…)
児島周辺に学生服の会社(工場)が集中したのは、80年代くらいの教科書には書かれていた児島湾の干拓と関係する(90年代の教科書ではふれられていない)。
80年代くらいまで、日本には京浜、中京、阪神、北九州の四大工業地帯がある、と教えられてきた。(…)現在の教科書によれば、京葉工業地域、北関東工業地域、瀬戸内工業地域との用語が登場し、これら各工業地域の出荷額は約30〜40兆円(18年)。いずれも北九州工業地帯の約10兆円より数倍も多い。
佐賀市の東側、神崎市と吉野ヶ里町にまたがる丘陵で、89年吉野ヶ里遺跡の発見が報道された。(…)それまでの教科書では、弥生時代の遺跡としては、登呂遺跡(静岡県)の記述が代表的だったので、主役が交代した形となった。
サツマイモは22年鹿児島県21.0万t、茨城県19.4万tで、近年生産量では鹿児島県は茨城県に猛迫されている。茨城県のサツマイモはベニアズマが多く、生食用が大半。鹿児島県のサツマイモはコガネセンガンが多く、焼酎の原料となるアルコール類用が約50%を占める。
モノの機能を捉え直す技法は「リフレーミング」と呼ばれ、投稿歌壇の入選作に多く見られますが(…)
子規庵歌会はそれまでの歌会と異なり、句会の形式を採用していました。(…)匿名互選によって歌会からヒエラルキーを取り払った点は革新的であり、この構造は少しだけ形を変えて、現在の歌会でも維持されています。
文語短歌は当時の言葉で「普通文」と呼ばれる書き言葉で書かれます。「普通文」とは明治期に確立した統一的な書き言葉の一種で、(…)平安時代の書き言葉に由来する助動詞を使います。しかし、動詞や名詞はある程度口語文と共通しています。
新興短歌は思いのほか少数派です。当時の大手出版社である改造社刊の『短歌研究』について、創刊年の一九三二年から新興短歌が終息を迎える一九四一年までの寄稿者を集計すると、新興短歌側の人名は全体の一〇%ほどにしかなりませんでした。
既存の短歌史は、多くの場合話題になった評論や論争ベースで書かれています。本書もそれを踏襲しました。こうした手法では男性歌人中心の短歌史記述となることを免れません。