2025年02月28日

神戸短歌祭

神戸短歌祭.jpeg


4月29日(祝・火)の「神戸短歌祭」で講演をします。
題は「見えないものの詠い方」。
どなたでも参加できますので、ぜひ会場にお越しください。
参加費は1000円です。

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2025年02月27日

森茉莉『父の帽子』


1957(昭和32)年刊行の『父の帽子』(筑摩書房、第5回日本エッセイスト・クラブ賞受賞)に、「父の底のもの」「人間の「よさ」を持った父」を加えた全16篇のエッセイ集。

父森鷗外に対する作者の深い思慕はよく知られているが、それは幼少期に孤独だったためでもあるようだ。

次の弟の不律が死んでから杏奴が生れて、それが遊び相手になるまでの八年位の間、私は一人だった。兄は大きくてたまにしか相手にならない。女中と遊ぶことは禁じられている。唯一の話し相手であった父は、朝から薄暗くなるまで何処かへ行っていて居ない。母は小説を読んでいたり、考え事をしていたり、戸棚から行李を出して片づけものをしたりしていた。

作者の描く父の印象と母の印象は大きく違う。「お茉莉は上等よ」といつも褒めてくれる父に対して、母はしつけなどに厳しい人であったようだ。

私は父の顏を思い出す。微笑している顔、考える顔、しかめた顔、どんな場合の顔を思い出しても、父の顏には不愉快な影がない。浅ましい人間の心が覗いていた事がない。父は人間の「よさ」を持った稀な人間だった。
母は厳しかった。いつもきっとして、「まりちゃん」と呼んだ。母に呼ばれると、いつもぐにゃりとして、どこかしらんによりかかったりしているような私も、直ぐに起き上って、ピアノを復習(さら)ったり、勉強をしたりしなくてはならないようになるのだった。

森鷗外が主催していた観潮楼歌会の話も出てくる。

時々、観潮楼歌会というのがあって、二階の観潮楼に大勢の人が集まって、夜遅くまで賑やかに笑ったり、話したりしていた。(…)私は父の傍へ行って坐り、紙を貰って字を書いたり、絵を描いたりした。人々は、何か考えたり、書きつけたりし始める。

観潮楼歌会に参加していた石川啄木も、森茉莉のことを手紙や日記に書いているので、引いておこう。まずは、1908(明治41)年7月7日、岩崎正宛の書簡。

森先生の奥様は美しい人だよ。上品な二十八九位に見える美しい人だよ。令嬢は一人で六歳。茉莉子といふ名から気に入る。大きくなつたらどんな美人になるか知れない程可愛い人だ。一ケ月許り前からピアノを習ひに女中をつれて俥でゆくさうで、此頃君が代を一人でやる位になつたさうだ。羅馬字でMARI,MORI.と書いて見せたりする。可愛いよ。

続いて、同じ年の9月2日の日記から。

二時半頃、与謝野氏と平野君と突然やつて来た。平賀源内の話などが出た。一時間許りして、三人で千駄木の森先生を訪うた。話はそれからこれと面白かつた。茉莉子さんは新らしいピヤノで君が代を弾いたり、父君の膝に凭れたりしてゐた。

ピアノで弾いているのが「君が代」というのがおもしろい。これも時代だろうか。

1991年11月10日第1刷、2023年11月16日第37刷。
講談社文芸文庫、1200円。

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2025年02月26日

明治41年冬の釧路

今日から少し寒さが緩むという話だが、さてどうなるだろう。

そう言えば、啄木も釧路時代に筆が凍る寒さを経験していたなと思って、「明治四十一年日誌」を開いてみる。

一月二十二日
 起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シヤボン箱に手が喰付いた。
一月二十三日
 (…)二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つ抱いての寒さは、何とも云へぬ。
一月二十四日
 寒い事話にならぬ。(…)
 机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。

華氏−20度は摂氏に換算すると−28.9度になる。えっ?と驚くような寒さなのだが、釧路港文館(旧釧路新聞社の建物を復元した観光施設)のHPの「啄木滞在期間の気温一覧」 によれば、

1月22日 最高−12.8℃ 最低−22.0℃
1月23日 最高− 8.2℃  最低−26.1℃
1月24日 最高− 8.5℃  最低−29.3℃

という寒さで、1月27日には最低気温−33.1℃に達している。この年は例年に比べてもかなり寒かったようだ。

1月30日の啄木の手紙(金田一京助宛)にも、こうした釧路の寒さが記されている。

雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(?)を買って来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし(…)

何ともすさまじい寒さである。今と違ってエアコンもストーブもなく、部屋にあるのは火鉢や行火だけ。部屋全体が温まることはない。

また、筆ではなくペンを使えば字が書けるかと言えば、それもまた難しい。

 こほりたるインクの罎(びん)を
 火に翳(かざ)し
 涙ながれぬともしびの下(もと) 『一握の砂』

今度はペンではなくインクが凍ってしまうのであった。

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2025年02月25日

齋藤美衣『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』


毎日のように「死にたい」思いに襲われる著者が、精神科閉鎖病棟への措置入院の経緯を記すとともに、自らの心に深く封じ込めてきたものを掘り起こし向き合った記録。

何とも凄絶で、時おり読み進めるのが辛くなる内容だが、「書く」ということの力を強く感じる一冊であった。

この本は、なぜわたしに「死にたい」が毎日やってくるのか、その理由を探すために、目的地も見えぬなか歩み出した旅の記録だ。わたしには書くという作業が必要だった。必要というより必然だった。書くことを通してでしか、〈自分〉という未踏の地に足を踏み入れる勇気を保つことはできなかった。

第T部「世界との接点」は、過去にさかのぼり自らの経験を具体的・客観的に描き出している。

14歳の時に急性骨髄性白血病となり1年にわたる入院生活を送った著者は、本当の病名を告げられず、でも密かに知ってしまったことで、深く傷つく。やがて病気は寛解したものの、今度は「生き残ってしまった」という思いに苦しむことになる。

両親や医師、社会との関わりのなかで、自分の話を聞いてもらえない、感情を無いものとされるという経験が何度も繰り返される。そうした過程でずっと抑えてきた思いが、肉体的・精神的な不調となって表れるのだ。

第U部「穿ちつづける」は、自らの体験をもとに心の問題を深く探っていく内容で、「食べる」とは何か、「謝る」とは何か、「時間」とは何か、といった哲学的とも言うべき考察が続く。

食べること、性的なことの共通点は、どちらも人の営みの中心にある、ということではないだろうか。つまり生きていることに直結していること。そしてこの二つはどちらも、自分ではないもの(他者)を受け入れて、自分と融合させることだ。
人が謝るとき、本来の許しを求めることを大切にしないで、謝るために謝ることが存外行われているんじゃないだろうか?許しを求めるということは、相手の気持ちを十分に想像して、そこに自分の気持ちを沿わせることだろう。

書くことを通じて、著者は長年封じ込めてきた感情と向き合い、自分自身や世界と出会い直す。昨年刊行した第1歌集のタイトルに『世界を信じる』と付けたのも、きっとそうした思いの反映なのだろう。

https://matsutanka.seesaa.net/article/507351655.html

2024年10月15日、医学書院、2000円。

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2025年02月23日

東京から

東京(神奈川)の父の家から帰ってきた。

父が今の団地に住み始めたのは1987年のこと。もともと単身で住んでいた叔父と一緒に暮らすようになったのだった。

それから20年して叔父が亡くなり、その後、団地の中で高齢者用の部屋に移って17年あまり。それなりに愛着もあることだろう。

でも、もうひとり暮らしは限界を迎えていて、その部屋から退去する日が近づいている。

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2025年02月22日

東京へ

父の様子を見に東京(神奈川)へ行ってきます。
3連休は雪の予報なので新幹線の運行状況が心配ですが……。

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2025年02月21日

北村薫『中野のお父さんの快刀乱麻』


2021年に文藝春秋社から刊行された単行本の文庫化。

・『中野のお父さん』
https://matsutanka.seesaa.net/article/462601696.html
・『中野のお父さんは謎を解くか』
https://matsutanka.seesaa.net/article/484549087.html

「中野のお父さん」シリーズ第3弾。今回取り上げられるのは、大岡昇平、古今亭志ん生、小津安二郎、瀬戸川猛資、菊池寛、古今亭志ん朝。文学の謎だけでなく、落語や映画の話も出てくる。

詩歌にも詳しい作者なので、菊池寛の学生時代の短歌「我が心破壊を慕ひ一箱のマッチを凡(す)べて折り捨てしかな」に関して次のような父と娘のやり取りがある。

「勿論、実際、ポキポキ折ったわけじゃないだろう。しかし、こういう時の、譬(たと)えに使うのに《マッチ》は、持って来い――だな。(…)」
 美希も、無論、マッチがどういうものか知ってはいる。しかし少なくとも、この一年、使ったことはない。
「やり場のないいらいら。今の子なら、一本の歯磨きを、《えいやっ》と、すべてひねり出す方が――分かりますかねえ」

この歯磨きの話は、もちろん穂村弘の歌を踏まえているのだろう。

「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
           穂村弘『シンジケート』

このシリーズ、単行本ではもう第4弾が出ているようだ。

2024年11月10日、文春文庫、730円。

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2025年02月20日

小俵鱚太歌集『レテ/移動祝祭日』


「短歌人」「たんたん拍子」所属の作者の第1歌集。
2018年から2024年までの作品374首を収めている。

しなくても良い前泊に夜の窓あけてビジネスホテルの季節
猫老いて店主も老いてどちらかが死ぬまでつづく瀬戸物屋さん
ベランダの夜にやもりと佇んでたがいに気付かぬ振りをしていた
満月を半月にする夜行バス 6Pチーズをつぎつぎ食べて
商談をコメダですれば豆菓子は食べず互いにかばんへ入れて
ひとりでいるときのわたしを私だとおもう師走に独りで居れば
気がつけば小説だったというような雨がそのうち本降りになる
でたらめに路地を歩いて川に出れば川に沿いたい初夏のこころは
だとしても。ごく軽度だとぽつぽつと毀れた家族がはま寿司にいる
地下なのにスロープがある 何もかも思い通りになんてならない

1首目、当日の朝に出ても間に合うのに前泊する。自分だけの時間。
2首目、時が止まったような店であるが、それも永遠には続かない。
3首目、まるで同志のように何も言わなくても心が通じ合っている。
4首目、上句から下句への展開が楽しい。3個食べ終わったところ。
5首目、商談の席ではコーヒーに付く豆菓子はちょっと食べにくい。
6首目、独りの時が一番自分らしいと感じる。寂しさと自負が滲む。
7首目、上句の比喩がおもしろい。小説と現実が入り混じるような。
8首目、でたらめに歩く楽しさ。歩くことで自分の心に気付くのだ。
9首目、離れて暮らす幼い娘の障害の話。「はま寿司」がせつない。
10首目、情と景の取り合わせ。両側から掘り進めて生じた高低差。

2024年7月15日、書肆侃侃房、2200円。

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2025年02月19日

「若き詩人」の名誉回復のために(その7)

もう書くべきことはほとんど書き尽くしたので、長々と続いたこの話も今回で終わりにしようと思う。

最後に考えたいのは、高安がどうして訳者後記に次のような誤解を招く書き方をしたのかという問題である。

ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。

先にも書いた通り、この文章を読んだ多くの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説を読んだと思うだろう。「この眼で見た」という強い言い方からは、高安がカプスの姿を見たような印象さえ受ける。

それは、高安のカプスに対する批判を正当なものに感じさせる力を持ったのではないか。実際に現地で見てきた人の話だから間違いないといった印象を読者は植え付けられるのだ。

しかし、実際には高安は日本にいて、独逸文化研究所がドイツから取り寄せていた新聞を読んだに過ぎない。そもそも、何回かの新聞の連載小説を読んだだけでカプスの人生を論じることなど本来はできないことなのである。

もちろん、高安は嘘を書いているわけではない。「ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た」。この書き方にどこにも嘘はない。でも、それは読者をミスリードする要素を含んだものであった。

嘘はつくことなく、それでいて読者には高安がベルリンにいたかのように感じさせる巧妙な書き方と言っていい。どこまで意識的なものだったかはわからないが、この書き方には高安の或るコンプレックスが滲んでいるように思う。それは、戦前にドイツに留学できなかったというコンプレックスである。

高安が「ベルリンの絵入週刊新聞」を読んだ1937(昭和12)年の11月に、京都帝国大学文学部独文科で高安と同級であった谷友幸が、フリードリッヒ・ヴイルヘルム大学(ベルリン大学)に留学した。ライバルでもあった二人の間に、ここで大きな差が生まれたのであった。(この問題については、以前『高安国世の手紙』に詳しく書いた)

戦後の1949(昭和24)年に訳者後記を書いた時に、高安は何を考えたのだろう。心のどこかに潜んでいた思いが、自分が実際には行けなかったベルリンに「いたかのように感じさせる」書き方を生んだのではなかったか。

その時の高安の頭にあったベルリンは、戦前の華やかな姿であっただろう。そんなベルリンも、もう第二次世界大戦の戦禍によって幻のものになってしまったのだ。

高安は戦後3回にわたってヨーロッパを訪れているが、東西ドイツの分裂もあり、一度もベルリンを訪れることはなく1984年に亡くなった。一方のカプスは、戦後は東ドイツで活動し1966年に東ベルリンで亡くなった。そんなところにも、運命の不思議を感じるのである。

(この項おわり)

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2025年02月18日

「若き詩人」の名誉回復のために(その6)

カプスに対する堀辰雄の考えをもう一度読んでみよう。

カプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐた

カプスの側から見れば相当に残酷なことを書いているように思う。しかし、こうした見方は堀や日本国内だけのものではなかった。『若き詩人への手紙 若き詩人F.X.カプスからの手紙11通を含む』(2022年)の編者エーリヒ・ウングラウプ(リルケ協会会長)は、「この文通について」に次のように書いている。

しかし、奇妙なことに、カプスの書いた手紙に対する関心が生じることはなかった。(…)そしてここからも長く続く伝説が生まれた。つまり、カプスはリルケに求められた詩人になる使命を果たすことができず、それゆえに大詩人に宛てた彼の手紙は公式には「残っていない」という伝説である。

実際にはカプスの手紙11通はリルケの文書館に保管されていた。それにもかかわらず、長年その存在は無視され続けてきたのである。

そこには、リルケの天才ぶりや高潔さを際立たせるために、カプスを不当に貶める評価が働いているように感じる。高安の訳者後記もまた、カプスに対する批判の後にリルケを讃える話が続く。

これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。それだけにリルケの高潔な生涯は、ますます僕たちに力をもって迫ってくるのである。孤独などを今どき持ち出すのは、時勢にかなわないことかも知れぬ。だが孤独を知らぬ文学者とは、そもそも何者であろうか。それ自身実りのない孤独を、あのように豊穣な孤独にまで持ち上げたリルケを、僕たちはいつまでも忘れることができない。

高安のこうした見方は、多くのリルケ愛好者と共通するものだったということだろう。一方でそれは、リルケの手紙の「相手」という役割だけを与えられたカプスの不幸を生んだのである。

「この文通について」には、カプスの残した言葉が記されている。

「リルケの手紙のおかげで、受け取っただけなのに、私は自分で書いたものによってよりもずっと有名になってしまいました。」

(この項つづく)

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2025年02月17日

「若き詩人」の名誉回復のために(その5)

堀辰雄の文章は1937(昭和12)年6月に京都を訪れ、その後7月に信濃追分に戻ってから友人の立原道造宛ての手紙の形で書かれたものだ。「七月二十五日、追分にて」とある。

『若き詩人への手紙』は1929(昭和4)年にドイツのインゼル書店で出版された。日本では武田昌一が京大独逸文学研究会発行の雑誌「カスタニエン」の第6冊から第10冊にかけて計5回にわたって「或る若き詩人に送れる手紙」として翻訳し、1935(昭和10)年に『リルケの手紙』(若き一詩人への手紙・若き一婦人への手紙)として出版している。

堀はドイツ語の原書か翻訳で『若き詩人への手紙』を読み、カプスの名前を覚えていたわけだ。

さて、ここで問題になるのは、堀の文章と高安の訳者後記の関係である。両者には共通する点が多いが、高安は堀の文章を元に訳者後記を書いたわけではないと思う。

堀の文章の書かれた1937年、高安は3月に京都帝国大学を卒業して4月から大学院に進学している。堀の文章の舞台となった独逸文化研究所は高安の通う大学のすぐそばにあった。しかも高安は「O君」こと大山定一とも深い関わりがある。『高安国世全歌集』の年譜には1935(昭和10)年のところに、

京都ドイツ文化研究所講師として京都へ戻ったドイツ文学科の先輩、大山定一を訪ね、尊敬と親愛の念を抱く。大山を中心とする独文卒業者たちの研究同人誌『カスタニエン』の同人となる。

とある。つまり、高安は大山と交流があり、独逸文化研究所にも出入りしていたのだろう。

高安はそこで大山から堀辰雄やカプスの話を聞き、実際にカプスの小説の載っている新聞を見たにちがいない。なぜなら、堀の文章では「独逸の新聞」とだけあるのに対して、高安は「ベルリンの絵入週刊新聞」と細かく書いているからだ。訳者後記に「僕はこの眼で見た」とあるのは、その新聞を見たという意味なのだ。

「ベルリンの絵入週刊新聞」とは、おそらくBerliner illustrierte Zeitungのことである。1894年創刊の写真週刊誌で、イラストや写真を豊富に使った紙面と連載小説が人気を呼び、1920年代終わりには200万部を超える発行部数を誇った。

そんな新聞に小説を連載するのは文学者として成功した姿と言っていいと思うのだが、堀や高安はそのようには受け取らなかった。彼らは「胸の痛くなるやうな気がした」(堀)のであり、「悲しむべき事実」(高安)と捉えたのである。

(この項つづく)

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2025年02月16日

「若き詩人」の名誉回復のために(その4)

実は、高安の謎を読み解く重要なヒントになる文章があるのだ。元ネタと言ってもいいかもしれない。

話は戦前にさかのぼる。

その文章とは堀辰雄「夏の手紙 立原道造に」である。初出は「新潮」1937(昭和12)年9月号で、『雉子日記』(1940年)にも収められている。

少し長くなるが、該当部分をすべて引用しよう。

僕はこなひだ京都に滞在してゐたとき、或日、独逸文化研究所にO君を訪ねて行つたことがある。O君はまだ来てゐられなかつたので、僕はしばらく大きな応接間で一人きり待たされてゐた。――僕はそこでぼんやりと煙草を二三服したのち、何気なく傍らの卓子の上に置いてあつた独逸の新聞の束を手にとつて、ばらばらとめくつてゐると、それへ毎号絵入小説を連載してゐる作者の名前がどこかで見覚えのあるやうな気がしてきたが、そのうちその小説の第一回の冒頭にその作者のことが写真と共に小さく紹介してあるのを見ると、それはリルケがあの有名な手紙を書いて与へた往年の若き詩人――フランツ・クサヴェア・カプスなんだ。あのカプスがいまはこんな絵入小説を書いてゐるのか、と僕はしばらく自分自身の眼を疑つた。が、まさしくカプスだ。もつとも、あの「若き詩人への手紙」の序文のなかで、カプス自身、生活のためにリルケが彼に踏みこませまいと気づかつてゐたやうな領域へいつか追ひやられてしまつてゐるのを嘆いてゐたことを読んで知つてはゐたが、――そのカプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐたが、そのカプスがいまはこんな仕事をしてゐるのか、と思ふと、僕はそれを拾ひ読みして見ようなんていふ好奇心すら起らず、ただなんだか胸の痛くなるやうな気がしたばかりだつた。
 そのうちにO君が漸く来たので、それを見せるとO君もそれを知らずにゐて、一驚して読んでゐたが、そんなカプスのことから僕達の話はいつかリルケの方に移つていつた。僕なんぞよりもずつとよくリルケを読んでゐるO君にいろいろな話を聞いてゐるうちに、自分のリルケの本といへば殆ど全部其処に置きつ放しにしてある山里の方が変になつかしくなつて、僕はなんだかかうやつて京都や奈良をぶらぶら歩きまはつてゐるのに一種の悔いに似た気もちさへ感ぜられてきて仕方がなかつた……

文中に出てくる「独逸文化研究所」はドイツ文化の普及のために1933(昭和8)年に設立された社団法人で、京都帝国大学のすぐ近く(現在の京都大学高等学院のある場所)にあった。

「O君」はドイツ文学者の大山定一(1904‐1974)である。リルケの翻訳も数多くしており、高安にとっては9歳年上の京都帝国大学文学部独文科の先輩にあたる。

高安の記した「ベルリンの絵入週刊新聞」は、この1937(昭和12)年の場面に出てくるものなのであった。

(この項つづく)

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2025年02月15日

「若き詩人」の名誉回復のために(その3)

往復書簡を読むとよくわかるのだが、カプスはもともと「詩人」ではない。「軍人」である。それでも文学への憧れを捨てきれなかったカプスは、リルケと手紙のやり取りを行い、第一次世界大戦後に退役して作家・ジャーナリストとして活躍した。

つまり、彼はリルケの助言に反して通俗的な三文小説家になってしまったわけではなく、自らの意志を貫いて、自らの望んだ道を進んだ人だったのである。訳者後記に記された高安の見方は、かなり偏った一面的なものと言っていい。

さらに、ここで一つの事実を明らかにしよう。
私がこれまで伏せてきた話である。

高安国世訳の『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』(新潮文庫)は1953(昭和28)年の発行である。その元になったのは、1949(昭和24)年に養徳社から出たもので、その時に訳者後記は書かれている。

もう一度、大事な箇所を引いてみよう。

この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。

この文章を読めば、ほとんどの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説が載った新聞を読んだと思うだろう。私も当然そう思っていた。

しかし、『高安国世の手紙』を書いていて気付いたのだが、高安が初めてドイツを訪れたのは1957(昭和32)年のことである。高安は戦前からドイツ留学を夢見ながら、身体が弱かったこともあって留学の機会を逃したのであった。

それなのに、なぜ1949(昭和24)年の文章に「ベルリンの絵入週刊新聞」が出てくるのか? ここに、おそらくこれまで公になっていない秘密が隠されている。

(この項つづく)

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2025年02月14日

「若き詩人」の名誉回復のために(その2)

リルケの言葉に感服する一方で、私は手紙の相手である「若き詩人」カプスのことは軽んじた。それはカプスが文学者として無名な存在だったからだけではない。巻末の訳者後記に次のように書かれていたからだ。

ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。これは悲しむべき事実である。たとえどのような生活の労苦があったにせよ、これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。

カプスに対するこの高安の痛烈な批判は、強く印象に残るものであった。そのため、私はカプスが通俗的な三文小説家になってしまったのだと心のどこかで軽蔑し続けてきたのであった。

それから、長い時間が過ぎた。

私は2009年から2011年にかけて「塔」に「高安国世の手紙」という文章を連載して、それを『高安国世の手紙』(2012年)にまとめた。その過程で、私は一つの事実を知ったのである。先ほどの訳者後記に関することだ。

でも、それは高安にとってあまり名誉な話ではないので、これまでどこにも書かずに伏せてきた。

そうこうしているうちに、2022年に『若き詩人への手紙 若き詩人F・X・カプスからの手紙11通を含む』という本が出て、リルケの手紙だけでなくカプスの手紙も私たちは読むことができるようになった。二人の往復書簡が揃ったのである。
https://matsutanka.seesaa.net/article/504016701.html

この本の刊行によって、カプスのイメージは大きく変わったと思う。

(この項つづく)

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2025年02月13日

「若き詩人」の名誉回復のために(その1)

少し長い話になると思う。

私がリルケの『若き詩人への手紙』を初めて読んだのは大学生の頃だった。新潮文庫の高安国世訳のものである。当時私は大学でドイツ文学を専攻しており、高安国世の名前はドイツ文学者として、リルケの翻訳者としてよく知っていた。

その頃の私は短歌にはまったく興味がなかったので、高安が歌人であることは知らなかった。高安がドイツ文学者であるとともに歌人であったことを知るのは、1996年に「塔」に入会してからのことだ。

『若き詩人への手紙』には、今読み返しても胸を打たれる部分がたくさんある。

あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。
孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。人間から人間への愛、これこそ私たちに課せられた最も困難なものであり、窮極のものであり、最後の試練、他のすべての仕事はただそれのための準備にすぎないところの仕事であります。

こうした文章に大学生の私は深く感じ入ったものだ。リルケの言葉が高安の翻訳によってすーっと美しく胸に沁み込んでくる。

(この項つづく)

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2025年02月12日

「滸」6号

「沖縄に問いを持つ表現者」による同人誌。「滸」は「ほとり」。
同人は、安里琉太・酢橘とおる・良真実・西原裕美・屋良健一郎。

同人の俳句・短歌・詩などが載っているのだが、今回最も印象に残ったのは、生活と詩歌の折り合いについての質問に対する良真実の回答であった。

 本を書くために二度職を失った。書類上は一身上の都合で、となっている。つまり自己都合退職であるのだが、実質的には短歌都合退職であった。評論を書きながら仕事を続けていたら食べたものの三分の一が胃から出てくるようになった。いまは傷病手当と、連載の原稿料で暮らしている。初の単著である『はじめての近現代短歌史』(草思社)はほとんど無職の期間に書いたようなものだ。

『はじめての近現代短歌史』はとても良い本だった。
https://matsutanka.seesaa.net/article/510118481.html

でも、その印税が「前職の給与三ヶ月分といったところ」では、まったく割に合わないだろう。執筆に要した時間や資料代に到底見合う金額ではない。本が売れるのを願うのはもちろんだけれど、それだけではどうしようもない構造的な問題がある。

若手歌人のビジネスモデルをどう築いていくのかという問題は、良の「現代短歌史を取り戻せ」という文章にも記されている。
https://note.com/nukimidaru/n/n5036a6b51c32

・・・何か良い解決法はあるのだろうか?

posted by 松村正直 at 23:42| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月11日

八木澤高明『忘れられた日本史の現場を歩く』


北海道から九州まで全国19か所を訪れて、その土地に関する出来事を追ったドキュメンタリー。

「拝み屋が暮らす集落」(高知県香美市)、「人首丸の墓」(岩手県奥州市」、「無戸籍者たちの谷」(埼玉県秩父市ほか)など、歴史の表舞台には出てこない話を、著者は好んで取り上げている。

明治から昭和の戦前にかけて、日本から主にアジアに出て体を売った娼婦はからゆきさんと呼ばれた。ちなみにアメリカで体を売った娼婦たちのことは、あめゆきさんと言った。当時、日本人の女性が海外で体を売ることは珍しいことではなかった。
その地図では、アイヌが暮らした場所を、「\村(えぞむら)」と記している。地図によれば、弘前藩の領地には五ヶ所の\村があった。ケモノ偏に犬とは人間ではないようで、何ともひどい呼称だが、江戸時代のアイヌに対する感覚が如実に表れている。
五島列島は東京を中心とすれば、日本の外れとなってしまうが、東シナ海というアジアの海の回廊を中心にすれば、古代から日本の玄関口であった。その回廊によって、キリスト教も戦国時代の日本へと伝わった。

興味深い話が多くカラー写真も雰囲気をよく伝えているのだが、1か所あたり6〜8ページという分量で終ってしまうのがもの足りない。さらに深掘りした詳しい話を聞きたくなった。

2024年6月5日、辰巳出版、1600円。

posted by 松村正直 at 23:43| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月09日

内田宗治『30年でこんなに変わった!47都道府県の平成と令和』


1990年代前半と2020年代とを比較して、この30年の間にどのような変化があったのかを各都道府県別に記した本。人口、産業、歴史、交通などに加えて、地方百貨店、民放テレビ局、進学校の実績などの動向もデータで示している。

学校で習ったことや漠然と抱いていたイメージとは異なる現状に驚かされることの多い内容だった。

「札仙広福」という言葉がある。東京、大阪、名古屋の三大都市圏に次いで、札幌、仙台、広島、福岡の4都市が、地方としては群を抜いているためである。
90年頃の教科書までは、更新世は洪積世、完新世は沖積世と呼ばれていた。
現在の50歳くらいのひとを境に知っている、知らないが分かれるものに「忠臣蔵」がある。
日本全国での果実の収穫量は、30年前に比べて、ほとんどの種類で減少している。93年比で21年の収穫量は、リンゴ0.65倍、ミカン0.50倍、ブドウ0.64倍、モモ0.62倍、梨0.48倍だ(…)
児島周辺に学生服の会社(工場)が集中したのは、80年代くらいの教科書には書かれていた児島湾の干拓と関係する(90年代の教科書ではふれられていない)。
80年代くらいまで、日本には京浜、中京、阪神、北九州の四大工業地帯がある、と教えられてきた。(…)現在の教科書によれば、京葉工業地域、北関東工業地域、瀬戸内工業地域との用語が登場し、これら各工業地域の出荷額は約30〜40兆円(18年)。いずれも北九州工業地帯の約10兆円より数倍も多い。
佐賀市の東側、神崎市と吉野ヶ里町にまたがる丘陵で、89年吉野ヶ里遺跡の発見が報道された。(…)それまでの教科書では、弥生時代の遺跡としては、登呂遺跡(静岡県)の記述が代表的だったので、主役が交代した形となった。
サツマイモは22年鹿児島県21.0万t、茨城県19.4万tで、近年生産量では鹿児島県は茨城県に猛迫されている。茨城県のサツマイモはベニアズマが多く、生食用が大半。鹿児島県のサツマイモはコガネセンガンが多く、焼酎の原料となるアルコール類用が約50%を占める。

各都道府県の人口動態を見ると、県庁所在地やその周辺のベッドタウンに30年で人口が大きく偏ってきたのがよくわかる。日本列島を人体に喩えると、太い血管にだけ血が流れていて毛細血管はもう干からびているような状態だ。

2024年1月21日、実業之日本社 じっぴコンパクト新書、1200円。

posted by 松村正直 at 19:55| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「作歌の現場から」のアーカイブ

2か月に1回開催しているNHK学園のオンライン講座「現代短歌セミナー 作歌の現場から」は、過去の回のアーカイブ受講もできます。

@「意味を詰め込みすぎない」小池光
https://college.coeteco.jp/live/5vxlc4y2

A「過去形と現在形」小島ゆかり
https://college.coeteco.jp/live/809gce7v

B「社会詠をどう詠むか」栗木京子
https://college.coeteco.jp/live/5vxlc437

C「情と景の取り合わせ」三枝ミ之
https://college.coeteco.jp/live/5ynjc6g4

D「てにをはの使い方」大辻隆弘
https://college.coeteco.jp/live/mk1dc2y6

E「モノの見方の新しさ、発見の歌」奥村晃作
https://college.coeteco.jp/live/m331c6z3

F「文語と口語」松村由利子
https://college.coeteco.jp/live/mk1dcy62

G「直喩と暗喩、比喩のさまざま」吉川宏志
https://college.coeteco.jp/live/mgzjcxod

H「自然、風土の歌」伊藤一彦
https://college.coeteco.jp/live/5ynjcwnr

ご興味のあるテーマやゲストの回がありましたら、
ぜひご視聴ください。よろしくお願いします!

posted by 松村正直 at 11:22| Comment(0) | カルチャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月08日

雪の京都

DSC02418.JPG


京都は昨夜から今朝にかけて雪が降り、久しぶりの雪景色となった。

電車の遅れを心配しながら大阪のカルチャー講座に行ったところ、大阪駅の周辺には雪の気配もない。京都と大阪でもずいぶんと気候が違うのだなあ。

posted by 松村正直 at 23:03| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月07日

住吉カルチャー&フレンテ歌会

寒さの厳しい一日。

神戸市東灘区文化センターで、10:00〜12:00 住吉カルチャー、参加者10名。楠誓英歌集『薄明穹』を取り上げた。

昼食を挟んで12:40からフレンテ歌会、参加者14名。今日は自由詠のみの計18首について議論して14:30に終了。

その後は「パンの耳」第10号の企画に関する打合せを行った。通常よりページ数の多い記念号にする予定。どんな内容のものになるか楽しみだ。

17:00終了。今月も寒いので食事などには行かずに解散。京都に着いたら雪が降っていた。

posted by 松村正直 at 23:10| Comment(0) | 歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月06日

良真実『はじめての近現代短歌史』


明治時代から現在にいたる短歌の歴史をまとめた本。

まえがきに「短歌史とは秀歌の歴史のことです」とある通り、まず第一部「作品でさかのぼる短歌史」では秀歌69首を読み解きながら現在から明治時代へと時代をさかのぼっていく。その後、第二部「トピックで読み解く短歌史」では、時代順に歌壇に起きた出来事や登場した歌人たちを紹介している。

かなり専門的な話も出てくるのだが、著者の文章は明晰で論旨もすっきりしていて読みやすい。また、すべての人名にふりがなを付けたり、文語助動詞の解説を付け加えたりという点も親切だ。「です・ます」調の文体も含めて、多くの人に読んでもらいたいという気持ちの表れだろう。

本書の大きな特徴として、男性に偏っていた短歌史の記述をできるだけ男女平等にしようと試みている点が挙げられる。従来の男性歌人中心の語りの問題について繰り返し言及するとともに、女性歌人の作品や動向について丁寧に記している。

また、「キリスト教」「沖縄」への目配りも、これまでの短歌史に薄かった部分だ。わからない歌として話題になった服部真里子の作品について「キリスト教の文脈を導入すれば容易に読むことができます」と解説している部分や、新城貞夫や沖縄戦を詠んだ歌を取り上げているところに持ち味が出ている。

以下、備忘のため印象に残った部分を引いておく。

モノの機能を捉え直す技法は「リフレーミング」と呼ばれ、投稿歌壇の入選作に多く見られますが(…)
子規庵歌会はそれまでの歌会と異なり、句会の形式を採用していました。(…)匿名互選によって歌会からヒエラルキーを取り払った点は革新的であり、この構造は少しだけ形を変えて、現在の歌会でも維持されています。
文語短歌は当時の言葉で「普通文」と呼ばれる書き言葉で書かれます。「普通文」とは明治期に確立した統一的な書き言葉の一種で、(…)平安時代の書き言葉に由来する助動詞を使います。しかし、動詞や名詞はある程度口語文と共通しています。
新興短歌は思いのほか少数派です。当時の大手出版社である改造社刊の『短歌研究』について、創刊年の一九三二年から新興短歌が終息を迎える一九四一年までの寄稿者を集計すると、新興短歌側の人名は全体の一〇%ほどにしかなりませんでした。
既存の短歌史は、多くの場合話題になった評論や論争ベースで書かれています。本書もそれを踏襲しました。こうした手法では男性歌人中心の短歌史記述となることを免れません。

過去百数十年の短歌の流れをたどり、これからの短歌について考えるのに絶好の一冊となっている。おススメです!

2024年11月6日、草思社、2300円。

posted by 松村正直 at 09:07| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月05日

吉村昭『総員起シ』


5篇の戦史小説を収めた短篇集。

「海の柩」は北海道沿岸で起きた輸送船撃沈、「手首の記憶」は樺太の大平炭鉱病院の看護師たちの集団自決、「烏の浜」は樺太からの疎開船小笠原丸の撃沈、「剃刀」は沖縄戦、「総員起シ」は伊号第33潜水艦の沈没事故と船体の引揚げがテーマになっている。

どの話も生々しくて衝撃的なものばかり。綿密な取材をもとにこれらを書き記した作者の筆力に感服する。

2014年1月10日新装版第1刷、2024年9月25日第3刷。
新潮社、710円。

posted by 松村正直 at 21:12| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月04日

寒波

冷暖房を使わない生活を始めて3度目の冬。

今日はこの冬一番の寒波がやって来たそうで、京都では最高気温7.9度、最低気温0.9度だった。外を歩いていても家の中にいても、確かに寒い。

でも、この冬一番の寒さかと言えばそうでもない。身体がもうこの冬の寒さに慣れているからだ。

人間の身体も季節によって変化するのだろう。今はもう冬になって2か月くらい経ったので、身体が完全に冬仕様になっている。冬仕様の身体は寒さに強い。

一方で、12月頃はまだ身体が冬仕様になっていないから、気温がそれほど低くなくても身体には堪える。人間の感じる寒さは単に気温だけではないということだ。

立春も過ぎて、あとは本格的な春の訪れを待つばかり。

posted by 松村正直 at 23:38| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月02日

今後の別邸歌会

 「別邸歌会」チラシ 2025.02.jpg


2か月に1回、関西各地で誰でも参加できる歌会を開催しています。

初めての方もベテランの方も、若い方も年配の方も、ふるってご参加ください。誰もが思ったことを何でも気軽に発言できる場を目指しています。
posted by 松村正直 at 22:46| Comment(0) | 歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月01日

今後の予定

下記の講座や歌会などを行います。
みなさん、お気軽にご参加ください。

2月19日(水)講座「現代短歌セミナー 作歌の現場から」(オンライン)
https://college.coeteco.jp/live/8dqlckqq

3月15日(土)第18回別邸歌会(新宮)
https://matsutanka.seesaa.net/article/510004066.html

3月22日(土)講座「短歌を通して考えるガザ、パレスチナ」(くずは、オンライン)
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7651547

3月29日(土)「春のプレミアム短歌講座」(東京)
https://college.coeteco.jp/live/mwlocw3y

4月16日(水)講座「現代短歌セミナー 作歌の現場から」(オンライン)
https://college.coeteco.jp/live/87wpc0ll

4月29日(火・祝)令和7年度神戸短歌祭
https://hyougokenkazin.jimdofree.com/

5月17日(土)第19回「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」(東京)

5月31日(土)第19回別邸歌会(神戸)
https://matsutanka.seesaa.net/article/510004066.html

6月 1日(日)講座「短歌―語順のマジック」(大阪)
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/020rf1sei0a41.html

6月18日(水)講座「現代短歌セミナー 作歌の現場から」(オンライン)
posted by 松村正直 at 13:58| Comment(0) | 今後の予定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする