
次回のオンライン講座「現代短歌セミナー 作歌の現場から」は、10月16日(水)19:30〜21:00の開催です。
ゲストは吉川宏志さん(「塔」主宰)、テーマは「直喩と暗喩、比喩のさまざま」です。
比喩の巧さに定評のある吉川さんをお迎えして、短歌で用いられる直喩や暗喩についてじっくりと語り合います。
どうぞお楽しみに!
https://college.coeteco.jp/live/8qz4clrq
もともと「大和魂」の対概念は「漢才(からざえ)」であった。それを宣長は「漢意(からごころ)」と読み替えた。
芳賀はドイツに行って国学を再発見したということである。芳賀が国学を日本文献学と名付けたのは、そのような経緯からであった。近代の国文学研究は、ドイツ文献学と近世国学を基盤として始まったのである。
真淵は万葉研究は存分にしたが、古事記研究にまでは手が回らないという忸怩たる思いを抱いていた。(…)宣長にとっての真淵も、真淵にとっての宣長も、お互いの欠を埋めるベター・ハーフであった。
物語は儒教や仏教による戒めのためにあるという考え方は、当時においては前提や常識であって、これを疑う者はいなかった。それゆえ宣長がそれらを真っ向から批判したのは画期的なことであったといえる。
宣長は論争を好んだ。持論と異なる説に対して容赦なく反論し、結論が同じでも論理的手続きに疑義がある場合には、これを批判し、批正した。
還暦の年に詠んだ「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の歌は、散る桜を詠んだ歌として、戦争で命を落とす(散華)歌に読み替えられた。どこをどう読んでも朝日に映えて咲きほこる桜なのに、である。
デパートの屋上になお一プレイ三十円のゲーム作動す
平日の昼間の安売りスーパーに男性客は意外と多い
ローソンとナチュラルローソン向かい合い利益を競う新宿の夜
メシを食うときも辺りを気にかけるカラスのような生き方は嫌だ
飛行機の翼が塵で黒くなり空はきれいでないことを知る
見上げれば綿菓子であり見下ろせば流氷らしく雲は見えたり
松屋では機械が飯を入れておりしゃもじは飯を整えている
銭湯の男子トイレのウォシュレット無数の男の尻を洗えり
食べられるために食べさせられているフィードロットの牛の静けさ
立ち食いの蕎麦すする人を後ろから見ればお辞儀をしているようだ
大東亜戦とは米と小麦、水田と畑との文化戦である。稲を作り米を食ふ民衆が、麺麭を食ひ、小麦を作る民族に決して劣らない、否彼の為し得ざる処を成し遂げることを事実に示す秋が到来した。
あの大戦争は、つまりはたべ物のあるなしで、勝ち負けがきまつたとも考へられます。
東條は、第一次世界大戦を経た今日においては「武力、経済、思想攻略等各種作戦を、一元的に統制する国家が、近代戦争の勝利者たることができる」と言い切り、ロシアなどの対日思想戦、プロパガンダ戦の脅威を指摘して(…)
新体制は従つて、国民各自に国防観念と国防力を充実するを要求する。高度国防は国家の総力を綜合することによつて、達せらるゝ故に、政治、外交、産業、経済、教育、文化、思想総てが国防を負担するを要する。(…)このことを歌人についていへば、歌人も国防人であるべく、その行動する短歌も消極的には国防を傷けず、積極的には国防を強化しなければならぬ。
一連の植民地産米増殖計画のさきがけが、「北海道産米増殖計画」であったことは決して偶然ではない。朝鮮が良質米のフロンティアであり、台湾がジャポニカ米の南のフロンティアであったように、北海道はその冷涼な気候から、稲作一般の北のフロンティアであった。
一方で緑の革命は、新種子に必要な肥料・農薬・水への依存を高めた。この依存構造から抜け出すことは、薬物依存と同じほど困難である。肥料や農薬は多国籍企業が販売した。
〈台中六五号〉をはじめとする蓬莱米は、台湾や八重山列島の稲の品種地図を完全に塗り替えた。しかも、この品種改良技術は、従来、インディカ米が主流だった台湾や八重山列島を、言わば「ジャポニカ米の大東亜共栄圏」のなかに編成しなおすことに成功した。
近年、孤独死はもはや特殊な出来事ではなくなってきている。年間約3万人と言われる孤独死だが、現実はその数倍は起こっていると言う業者もいるほどだ。
ゴミを溜めこんだり、必要な食事を摂らなかったり、医療を拒否するなどして、自身の健康を悪化させる行為をセルフネグレクトと呼ぶ。ニッセイ基礎研究所によると、孤独死の8割がこのセルフネグレクト状態にあるとされている。
孤独死の4件中3件が男性なんです。単身、離婚で孤独になるんです。女の人って、何かと人間関係を作るのがうまいけど、男の人って何かで躓くと、閉ざしちゃうんですよね
沢瀉(おもだか)は夏の水面の白き花 孤独死をなぜ人はあはれむ/雨宮雅子『水の花』
わたしたち、って主語をおおきくつかってることわかってて梔子の花
なんでこんなに暑いんだっけドトールの気をゆるしたらやられる感じ
そばかすをコンシーラーで隠さずにドリンクバーでたまに触って
ぶかぶかのTシャツを着るひとのではなくじぶんので過去はたまねぎ
テーブルががたついていてレシートをたくさん挟んできたまま帰る
それからは専門学校生としてひとのからだを曲げて暮らした
車から降りてくるひとおおすぎて、乗りなおすことができなさそうだ
夕暮れに鳩とんできて空欄に自由記述をながく書いてる
ゆっくりと値札を剥がす家族には言えないことを思い浮かべて
イベントの後のけだるさたこ焼きのために切られたぶつぎりの蛸
現実のその種のさまざまなものや標準的なものにいま取って代わっているのははたして何だろうか? それはたぶん男性だ。もしあなたが女性だとしたら。男性の視点、それがわたしたちの生活を統治している。それが標準を決めている。(「壁の染み」)
昭和初年の日本陸軍の課題は、工業生産力や技術力に劣る日本が、欧米の総力戦体制にどう追いつくかにあった。東條は、中堅軍事官僚としてその実務を担っていたのである。
この対立はいわゆる統制派と皇道派の対立と呼ばれる。両派の違いは、精神主義的で対ソ戦志向の皇道派と、部内の統制を重視して対ソ戦より総力戦体制整備を進めようとする統制派、というように説明される。
東條の「思想戦」や「経済戦」そして「国民の給養」に気を遣う態度は、彼の個人的なものというよりは、第一次世界大戦後の陸軍が組織として主に敗戦国の独国より得た教訓≠ノ根ざしたものとみた方がよい。
航空戦の「総帥」たらんとして結果的に失敗し、敵の空襲で国を焦土と化させた東條を批判するのは簡単だが、彼のやり方を戦時下の国民がどうみていたのか、という観点もあってよいはずである。
都市に対する空襲の効果を具体的に知るには、かの関東大震災当時を想起するのが最も早道である。
震災は一個の自然力であったが、今日では、簡単な人力をもって、この程度の惨害なら一瞬にして実現し得る。
入間川(いるまがは)高麗川(こまがは)毛呂川(もろがは)越辺川(をつぺがは)越えて逢ひたり都幾川(ときがは)の辺に
親四人送りおほせて卓上に桃と蜻蛉(あきつ)の猪口を置きたり
感染(うつ)るのは怖くはないが伝染(うつ)すのを恐れて今日も人に逢はざる
右へ切る形のままに三輪車路上にありてだあれもゐない
無防備に四肢投げ出して畳には猫のひらきが時々動く
底知れぬキャピタリズムの渦潮に朱塗りの椀はくるくる廻る
zoom会議の〈退出〉に触れもどりゆく冬の小部屋に西日が射せり
行きがけに投函せんとポケットに入れた葉書が食卓に在り
雨音の濃くまた淡く息づくを聴いてゐるなり人のかたへに
磨かれて板目艶めくカウンター仕切られてありアクリル板に
蘭印最大の都市であるジャワのバタヴィアは、オランダ人の別名である「バタヴィー」が語源だったが、日本の軍政当局は、一九四二年十二月九日付でバタヴィアを現地インドネシア呼称の「ジャカルタ」に変更した。
現地では十一世紀の王朝時代から、書き言葉の「ミャンマー」と話し言葉の「バマー」が併用されており、日本語のビルマは後者のオランダ語表記(Birma)が明治期に伝わったもので、漢字では「緬甸(めんでん)」と表記される。
日本人の視点では、日本とソ連の二つの「大国」の軍隊が草原で激突した国境紛争と思われがちなノモンハン事件だが、モンゴル側から見れば、日ソの二大国による戦闘の傍らで、異なる部族のモンゴル人が敵味方に分かれて戦った「ハルハ川戦争(モンゴル側の呼称)」という側面も存在したのである。
大国中心の第二次世界大戦観あるいは太平洋戦争観では、望まずして戦争に巻き込まれた周辺国および植民地とその国民・住民を無視したり、周辺国や植民地を「大国の争奪対象」と見なす視点に陥る危険性があるように思います。
それぞれにかくも異なる犬つれて人びとあるく夜明けの道を
年とりて気がつきやすくこのごろは手袋おとせばかならず拾ふ
電線をコイルのやうに巻く蔓は夢みるごとし根つこ断たれて
一メートルほど上空にひらひらと凧連れて児はむやみに走る
大声で「カメ」と言ふ子は亀ゐるを告ぐるにあらず亀を呼ぶなり
低気圧近づきたれば頭(づ)のなかをうしろへうしろへ魚が泳ぐ
冬の陽はただあたたかくテーブルの胡桃の影に凹凸のなし
えんぺらを抜き墨袋ぬき軟骨をぬきてなめらかな空洞とせり
数日を置きても固きアボカドのクレヨンのやうな食感をはむ
伝染病はいつしか感染症となり自己責任の気配濃くなる
「フィン→⊥」はできるのに、その逆の「⊥→フィン」ができない。(…)おそらく、動物の生態においては何かを逆に考えるということは少ないのかもしれない。
日本で最も飼育されているのはバンドウイルカという種で、水族館のショーでもおなじみのイルカである。このイルカには別名「ハンドウイルカ」という呼び名もあり、現在、日本では両方の名前が存在している。
好きなことに挑むというのはそれなりの負荷もあるわけで、やりたいことがそのままできる人は多くない。皆、何かしらの紆余曲折を経由する。その一つが失業である。
水族館人にとっては誰でも知っている当たり前のことが研究者には初耳だったということはよくある。
スワロフスキーの硝子のあひる口あけてなにか訴ふ飾り棚の中
「ゆるされない」と誰かいひけり喪服なる人々のなか靴脱ぎをれば
ブルーベリー小鉢一杯摘んできて昼寝の夫の腹の上(へ)に置く
育ちゆくいのちの濃さに圧されつつ水平に差し出すお年玉
ただそこにゐることですら戦ひで椿は舐めるやうに見られる
ダックスフントは濡れた黒目の頭(づ)を捩りひとを見ながら曳かれてゆきぬ
麻雀は四人家族の遊びにて遥かな昭和の正月あはれ
こぶのやうに夫のとなりにゐるわれは夫に出さるる茶を享けて置く
車椅子押し始めればわれの胃のあたり漂ふ父のあたまは
隣室に吊せるみちのく風鈴がしづかに鳴る日、岸にゐるわれ
兵庫県に生まれ京都帝国大学を卒業した上田三四二(1923-1989)は、昭和を代表する歌人として知られるほか、医師、小説家、文芸評論家としても活躍しました。二度の大病を経て命を見つめる深いまなざしを持ち、
ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
つくられし尿管に湧く水のおとさやけきあきの水音ひびく
など、平明で奥深い数々の歌を残しました。没後35年を迎える今年、上田作品をあらためて読みながら、短歌のあり方について考えてみたいと思います。
時ちゃんが帰らなくなって今日で五日である。ひたすら時ちゃんのたよりを待っている。彼女はあんな指輪や紫のコートに負けてしまっているのだ。
飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。
私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれる。
線路添いの細い路地に出ると、「ばんよりはいりゃせんかア」と魚屋が、平べったいたらいを頭に乗せて呼売りして歩いている。夜釣りの魚を晩選(ばんよ)りといって漁師町から女衆が売りに来るのだ。
お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う。
地球よバンバンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴(どな)ったところで、私は一匹の烏猫(からすねこ)だ。
夜は御飯を炊くのが面倒だったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。
私は本当に詩人なのであろうか? 詩は印刷機械のようにいくつでも書ける。ただ、むやみに書けるというだけだ。一文にもならない。活字にもならない。そのくせ、何かをモウレツに書きたい。心がそのためにはじける。
頭上運搬ができる人たちは、絶対に頭上にのせた荷物を落とさない、落としたことがない、落とした人も見たことがない、という。
今や、自動車もあるし、頭にのせてものを運ばなくてもよくなってはいるのだが、頭にものをのせて運べたころの、自分の身体への理解と直感の力、意識の力がなくなってくることが、私たちの人間としてのあり方になんの影響もない、とどうしていえようか。
彼女たちの言う「何の練習もしていないけれど、やろうと思えばできた」という言葉には、人間本来の身体づかい、というものについての、大いなる示唆が隠されている。