2022年08月05日

米川稔をたずねて(その2)


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墓地のところどころに昔ながらの手押しポンプの井戸がある。
手桶に水を汲んで、米川稔の墓と歌碑を探す。


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米川稔の墓と歌碑。

事前に鎌倉文学館に問い合わせて大体の場所を聞いていたにもかかわらず見つけるのに苦労した。墓は背後の崖の窪んだ側面に埋め込まれるように建てられていた。


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「米川家塋」と刻まれている。
「塋域(えいいき)」の「塋」なので、墓、墓地という意味だろう。

この墓は生前に米川自身が建てたものだ。歌集『鋪道夕映』には「営墓」と題する一連がある。

うつしかるもののかなしきこころどにわれは祖先(みおや)の墓づくりせり
みぎりには右大臣家の在(おは)しけりひだりはそこな無縁仏たち
土に委して無縁の塔の堆し山はみどりの冥(くら)からむとす
必定は埋(うづ)もれ果てむ墓ならめ卯の花垂れて咲きにけらずや

ここには米川が出征に際して残した遺髪が納められているが、遺骨はない。遺骨は今も海の彼方、約5000キロも離れたニューギニア島のどこかに眠っているのだろう。


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米川稔の歌碑。

米川のもとで働いていた助産師の丸エキさんによって、1971年に建てられたもの。高さ1メートルもない小さな歌碑である。『鋪道夕映』の最後の一首が刻まれている。

ぬばたまの夜音(よと)の遠音(とほと)に鳴る潮の大海の響動(とよみ)きはまらめやも

お墓参りを終えて、次は米川稔の自宅のあった場所を探す。


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教恩寺。

米川の自宅・病院(助産所)は、この寺の前にあった。自宅では月に1回、吉野秀雄らとともに「鎌倉短歌会」が催されていた。

posted by 松村正直 at 07:09| Comment(0) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする