2021年11月30日

雑詠(011)

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みずからの寝息聞きつつ眠る夜の浜にあまたのウミガメのぼる
良いことのおおかた尽きて赤黒くわたしの肺に垂れる柿の実
つややかに粒の揃った歯ならびのとうもろこしを食べる歯ならび
ひとつふたつ命かぞえる食卓に卵ありじゃこありハンバーグあり
湖の水位さがって露出するわたしの声だ見ないでほしい
三人と二人に分かれ座るよう言われ向き合う距離ある人と
楽しそうにご自分の部屋でお話しをされているという母に会いたし

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2021年11月29日

和語と漢語

『明治天皇御集』の明治37年のところには、日露戦争に関する歌が多く載っている。

つはもののかてもまぐさも運ぶらむ牛も軍の道につかへて
はりがねのたよりのみこそまたれけれ軍のにはを思ひやるにも
品川の沖にむかひていくさぶね進む波路を思ひやるかな

それぞれ「牛」「電信」「眺望」の題で詠まれた歌である。

和歌では基本的に漢語は使わず、和語を用いて歌を詠む。1首目の「つはもの」は「兵(へい)」、「かてもまぐさも」は「糧秣」のことだ。2首目の「軍(いくさ)のには」は「戦場」、3首目の「いくさぶね」は軍艦である。

中でも、2首目の「はりがねのたより」が面白い。近代以降の産物である「電信(telegraph)」には、該当する和語がない。そのため「はりがねのたより」(=電線による通信)と苦心して和語に〈翻訳〉しているのである。

文明開化以降の科学、文化、制度、組織を和語を用いてどのように詠めば良いのか。『開化新題歌集』などにも見られる苦労の跡が、こうした歌からも感じられる。

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2021年11月28日

漢語と西洋語

わが足はかくこそ立てれ重力(ぢうりよく)のあらむかぎりを私(わたくし)しつつ
惑星は軌道を走る我(われ)生きてひとり欠し伸せんために

森鷗外はこんなふうに「重力」「惑星」といった言葉を歌に詠んでいる。(旧派)和歌は原則として和語だけを用いて詠むもので、漢語の使用は排除されていた。それが新派和歌(短歌)においては漢語も取り入れるようになったのである。

もともと「和歌」(日本の歌)というのは「漢詩」(中国のうた)に対する言葉である。けれども、和歌革新運動以降の「和歌」の対抗する相手は「漢詩」から「西洋詩」へと変った。

「漢語」と書くと中国を思い浮かべてしまいがちだが、「重力」も「惑星」も1800年頃に長崎のオランダ通詞によって造られた西洋語の翻訳語である。つまり、「重力」や「惑星」は見かけこそ漢語であるが、実質的には西洋語なのである。

Wagnerはめでたき作者ささやきの人に聞えぬ曲を作りぬ

この歌では「Wagner」という西洋語をそのまま歌に取り入れている。現在では「ワーグナー」とカタカナで表記されることが多いが、いずれにせよ翻訳不可能な固有名詞なので西洋語をそのまま使うしかない。

おそらく、鷗外の意識においては「重力」「惑星」も「Wagner」も、同じ範疇の言葉だったのだろう。見た目では「漢字」と「アルファベット」という違いがあるけれど、どちらも西洋由来の言葉という点で共通している。

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2021年11月27日

青木真兵・青木海青子『山學ノオト』

著者 : 青木真兵
エイチアンドエスカンパニー
発売日 : 2020-10-05

「山學」は「やまがく」。

奈良県東吉野村で人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」を開いている夫妻の日記(2018年12月〜2019年末)と書下ろしのエッセイを収めた一冊。

人文系の図書は自然科学系のそれとは違い、「新しさ」と研究上の価値が相関しない。だから「古い」というだけで「意味がない」ということにはならない。
お金に振り回されず、お金の多寡が思考のノイズにならないように。むしろ効果的なお金の使い道を考えたい。そのためには生活の一部に、商品化されない「手作りの世界」を持つことが必要となる。
里と山を対置させて考えた時、里で生きるのに必要な能力は「お金を稼ぐ力」であり、山で必要なのは「お金がなくても生きていける力」だ。

山奥に住んでいるとはいえ引き籠っているわけではなく、あちこち出掛けて多くの人と会っている。人との出会いや会話が次の展開や活動へとつながっていくのだ。読んでいるうちに何だか少し元気になって、自分もいろいろチャレンジしてみようという気分になってきた。

それにしても、「ルチャ・リブロ」遠いなあ。

2020年9月28日、エイチアンドエスカンパニー(H.A.B)、1800円。
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2021年11月26日

北村薫『中野さんのお父さんは謎を解くか』


2019年に文藝春秋社より刊行された単行本の文庫化。

「中野のお父さん」シリーズ第2弾。8つの短篇が収められている。いわゆる安楽椅子探偵モノ&日常の謎モノで、主人公の田川美希から聞いた話をもとに父が謎を解いていく。

本や文芸に関する謎が多く、先日『文豪たちの友情』で読んだ徳田秋声と泉鏡花の喧嘩のエピソードの謎も出てきた。「火鉢は飛び越えられたのか」というタイトル。8篇の中ではこれが一番面白かったな。

巻末の初出一覧を見ると、初出の「オール讀物」掲載順と本の中での順序がかなり入れ替わっている。「2016年5月号」「2018年6月号」「2016年8月号」「2017年1月号」「2018年1月号」「2017年4月号」「2017年5月号」「2018年12月号」という並び方。

初出の順序で言えば、@FABECDGとなる。どうして、こういう並び方にしたのか気になる。何かの辻褄を合わせたのだろうか。これも作者から出された「日常の謎」なのかもしれない。

2021年11月10日、文春文庫、680円。

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2021年11月25日

泥書房

京都の泥書房さんで『駅へ』新装版(野兎舎)を販売しています。
サイン+1首入りです。

https://www.doroshobo.com/


 P1080554.JPG

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映画「ゴースト・ドッグ」

監督:ジム・ジャームッシュ
出演:フォレスト・ウィテカー、ジョン・トーメイ、クリフ・ゴーマン、ヘンリー・シルヴァ、イザーク・ド・バンコレほか

1999年公開作品。

副題に「The Way of the Samurai」とあるように、武士道を信奉する殺し屋が主人公。依頼人との通信手段は、なんと伝書鳩だ。

アクションあり、ユーモアありの展開で、珍しくドラマの筋がはっきりしている。もちろんそれだけではなく、個人と組織、時代の変化、人種的な多様性、コミュニケーションのズレといった問題について考えてみても良いのかもしれない。

京都みなみ会館、116分。

posted by 松村正直 at 17:02| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月24日

三宅岳『山に生きる』


副題は「失われゆく山暮らし、山仕事の記録」。

全国各地に残る山仕事を訪ね回って取材したルポルタージュ。既に失われてしまった仕事もあり、貴重な記録となっている。

登場するのは「ゼンマイ折り」「月山筍採り」「炭焼き」「馬搬」「山椒魚漁」「大山独楽作り」「立山かんじき作り」「手橇遣い」「漆掻き」「木馬曳き」「阿波ばん茶作り」をする人々。

馬搬(馬を使って山から木を搬出する)をする方の、馬に関する話が載っている。

その名を尋ねれば、「馬には名前をつけない」という驚きの答えを口にする岡田さん。理由を尋ねれば、馬に名前をつけると愛情が生まれてしまうから、とのこと。馬はあくまで仕事の道具という割り切りなのだ。

内澤旬子『飼い喰い』にも、ペットと家畜の違いは名前を付けるか付けないかだという話があったことを思い出す。

かつての山には様々な仕事があり、多くの人の生活の場となっていた。こうした仕事には定年がない。体力的な限界を感じてやめることはあっても、長く働き続けることができるものだ。

年を取っても働くことは貧しさではなく、むしろ人生の豊かさだったのかもしれないと思う。

2021年10月5日、山と渓谷社、1600円。

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2021年11月23日

竹中優子歌集『輪をつくる』


「未来」所属の作者の第1歌集。
第62回角川短歌賞受賞作を含む390首を収めている。

さっきまで一緒だった友バス停に何か食べつつ俯いている
ヘルパーが来てゴキブリのいなくなった部屋に父は暮らしぬ弁当食べて
母と離れることを帰ると言うようになって春夜の髪の手触り
新人が保険に加入するまでを四コママンガのように見かける
輪唱に加わることの静けさを春のレタスはやわらかく抱く
ほそながいかたちではじまる飲み会が正方形になるまでの夜
月曜日 職場に来られぬ上司のこと上司の上司が告げていくなり
上手く行かないことをわずかに望みつつ後任に告ぐ引継ぎ事項
駆け出せば必ず会える展開のテレビドラマをひとは眺める
ゆっくりと喋りたいから来た旅の途中にわかめうどんを食べる

1首目、一緒にいた時とは違うひとりの時の顔を垣間見てしまった。
2首目、ヘルパーが入るまではゴキブリのいる汚い部屋だったのだ。
3首目、実家に「帰る」のではなく自分の家に「帰る」ようになる。
4首目、職場に来る生命保険の勧誘。毎年繰り返される光景なのだ。
5首目、輪唱とレタスの取り合わせがいい。幾重にも重なる感じ。
6首目、夜が更けるにつれ人数が減っていき最後は一つの卓を囲む。
7首目「来られぬ」とあるので、おそらく精神的な不調なのだろう。
8首目、微妙な本音が表れた歌。自分より順調にこなされても困る。
9首目、予定調和のドラマ。実際にそうなることは稀なのだけれど。
10首目「わかめうどん」の柔らかさが上句の雰囲気と合っている。

2021年10月15日、角川文化振興財団、2200円。

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2021年11月22日

映画「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」

監督:ジム・ジャームッシュ
出演:ティルダ・スウィントン、トム・ヒドルストン、ミア・ワシコウスカ、ジョン・ハート、アントン・イェルチンほか

2013年公開作品。

アップリンク京都に続いて、今度は京都みなみ会館でジム・ジャームッシュの回顧特集が始まった。見逃した作品を見られるのは嬉しい。

現代に生きる二人のヴァンパイアの物語。ヴァンパイアと言っても、人間を襲ったりせずに静かに暮らしている。

舞台は路地の美しいモロッコの港町タンジールと劇場の廃墟などが立つアメリカのデトロイト。対照的な町の風景も、この作品の見どころと言っていいだろう。

京都みなみ会館、123分。

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2021年11月21日

石井千湖『文豪たちの友情』


2018年に立東舎から刊行された単行本に加筆修正し、書き下ろしの章を追加して文庫化したもの。

「室生犀星と萩原朔太郎」「正岡子規と夏目漱石」「中原中也と小林秀雄」「江戸川乱歩と仲間たち」など、近代の文学者たちの交流や友情を取り上げて、その軌跡を丹念に追っている。

単に仲が良かったという話ではない。時に憎み合ったり、疎遠になったり、人生の様々な場面で影響を与え合う濃密な関係性が描かれる。

近代文学の作家の場合は、彼らが生きていた時代を共有していないので、そのまま読んだだけではわからないこともたくさんあります。文学史の概論を読んでも、どんな社会で生きていたのか具体的に思い浮かべることはできません。交友関係を取っ掛かりに詳しく調べたら、作品の世界をより深く理解できるのでは?

確かに、本書を読むと作家たちの生きた時代が見えてくるし、何よりも彼らの作品をもっと読んでみたくなる。近代文学の恰好のガイドブックと言っていいだろう。

時代が違っていても、生と死の世界に分かれても、一生に一度も会うことができなくても、本があれば友達になることができる。文学を通じてなら、時空を超えて書き手と読み手の対話が成り立つ。わたしはそう信じています。

一冊を通して著者の文学に対する愛情を感じるとともに、文学の持つ魅力にあらためて気づかされた。

2021年9月1日、新潮文庫、590円。

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2021年11月20日

自然食通信編集部編『手づくりのすすめ 増補改訂版』


文:小玉光子、八田尚子
版画:宮代一義

「味噌」「豆腐」「梅干」「コンニャク」「そば、うどん」「つくだ煮」などを手作りする方法を紹介した本。1987年初版の23篇に、新たに3篇が追加されている。どの回も版画による図解が付いていて、温かみが感じられる。

かつては土地の風土や気候に合わせて手作りされていた食べ物が、今では大規模な工場で生産される画一的な商品になってしまった。そうした流れを見直し、まずは自分の食べる物から少しずつ変えていきたいとの思いが強く伝わってくる。

本書を読み終えて、早速「カマボコ、チクワ」の手作りに挑戦してみた。時間は掛かるけれど、別に難しくはない。出来上がりは市販の物とは全然違うものの、それなりに美味しい。

家庭では、こんどはこうすれば失敗しないかも――などと、工夫を重ねながら、うまい味噌づくり、醤油づくりに挑戦するのも楽しみのひとつ。

そうなのだ、失敗も含めて手作りには楽しみがある。そこが何よりの出発点だ。手間や面倒と思うのではなく、自分の食べる物を自分で作る素朴な喜びを、まずは取り戻すことが大切なのだろう。

2021年11月1日、自然食通信社、1800円。

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2021年11月19日

2つの一日講座

来年1月に石川啄木、2月に与謝野晶子についての講座を行います。

啄木については、有名な歌だけでなくあまり知られていない歌も取り上げて解説・鑑賞したいと思います。また、晶子の方は短歌だけでなく、現代にも通じる評論の魅力についてもお話しします。

◎講座「『石川啄木』こんな歌もあったの?」
 2022年1月23日(日)13:00〜15:00
 JEUGIAカルチャー京都 de Basic.(地下鉄四条駅より徒歩1分)

https://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_2-46106.html?PHPSESSID=1bv8aiijrc9nr28pg1os6j88d2

◎講座「現代に生きる与謝野晶子」(オンライン受講もできます!)
 2022年2月19日(土)13:00〜14:30
 朝日カルチャーくずは教室(京阪樟葉駅下車すぐ、駅ビル3階)

 【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/50362444-cbb8-c551-20f6-6176523248a7
 【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/3d3aee3e-2b6d-9668-4933-6184b001abe0

ご興味・関心のある方は、どうぞお気軽にお申込みください。

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2021年11月18日

立花開歌集『ひかりを渡る舟』


第57回角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。369首。
「まひる野」所属。名前の読みは「たちばな・はるき」。

夕焼けを返して光る教室の机の水面にだまってふれる
まひるまの海を見に行く。聴きに行く。ひとりでも夏は産めるのだから
友人はノートに頰をかぎりなく寄せながらその影に詩を書く
あたためたオリーブ・オイルが遥かより垂らさるる窓際の午睡に
家族から遺族となりてわたしたち小舟で暮らしています、四人で
祈りとは日々の行為のなかにある 床を磨けりこれは祈りだ
疚しさから裂けて溢れるやさしさの、くらぐらと瞼も思考の裂け目
つばめ進入防止ネットをくぐり抜けあなたの声が教会(チャペル)に響く
通話画面に写真を登録しないから鈍色の人が君になりゆく
飲食(おんじき)を繰り返し、死に歩みよる。時に下着を湯に洗いつつ

1首目、誰もいない放課後の教室。水面のように光る机の美しさ。
2首目、句点を打った文体が力強い。自分に言い聞かせているのだ。
3首目、書くことに夢中になっている感じ。「頰」が効いている。
4首目、眠気の訪れと暖かな光の様子が伝わる。溶けていきそうだ。
5首目、家族の誰かが亡くなると、残りの家族は「遺族」になる。
6首目、神社や教会だけが祈りの場所ではない。四句の具体がいい。
7首目「疚しさ」が高じて「やさしさ」になったのか。音が似通う。
8首目、上句が面白い。教会などの広い空間では対策が必要になる。
9首目、人型の輪郭の表示が君であることの不思議。性格も伝わる。
10首目、人の一生は突き詰めればこういうことなのかもしれない。

2021年9月30日、角川文化振興財団、2000円。

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2021年11月17日

モルゲンシュテルン(その2)

森鷗外『沙羅の木』を見ると、翻訳詩はデーメルの8篇から始まって、次にモルゲンシュテルン1篇、そしてクラブント10篇が続く。

その選びや並べ方の意図について、鷗外自身が序文で述べている。

ドイツの抒情詩は、先づ方今第一流の詩人として推されてゐるデエメルの最近の詩集から可なりの数の作が取つてある。後には又殆ど無名の詩人たる青年大学々生の処女作がデエメルと略同じ数取つてある。

デーメルとクラブントの二人についてこのように記した後で、モルゲンシュテルンについては次のように書く。

そして其中間に、盲目に籤引きをしたやうに、さ程でもないモルゲンステルンの詩一篇が挟まれてゐる。ドイツ人が見たら、いよいよ驚くであらう。しかしデエメルたることを得ずして、僅に名を成してゐる詩人の幾百幾千は誰を以て代表させても好いかも知れない。偶モルゲンステルンが其代表者となつて出ても、忌避すべきではないかも知れない。

くじ引きで選んだように、凡庸な詩人の中から、たまたまモルゲンシュテルの1篇を選んでみたというわけだ。ちょっとモルゲンシュテルンが可哀そうになってくる。

もっとも、ここには鷗外一流の韜晦がある。本国のドイツ人も「驚くであらう」という選びには、鷗外の目利きとしての自信があったに違いない。

ユーモア、ナンセンス、風刺の詩人として今では多少知られているモルゲンシュテルン。当時のドイツでの評価はどうだったのだろう。

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2021年11月16日

モルゲンシュテルン(その1)

坂井修一『森鷗外の百首』を読んでいたら、クリスティアン・モルゲンシュテルン(Christian Morgenstern、1871‐1914)の詩の翻訳が出てきた。

かかる珠いくつか吹きし。
かかる珠いくつか破(や)れし。
ただ一つ勇ましき珠
するすると木(こ)ぬれ離れて、
光りつつ風のまにまに
國原の上にただよふ。

「月出」(Mondaufgang)という詩の一部で、パンの神が吹いたシャボン玉の一つが空に昇って満月になったという内容だ。原詩は『In Phanta's Schloß』(1895)のもので、鷗外の詩歌集『沙羅の木』(1915)に収められている。

モルゲンシュテルン!

という驚きがあった。もう30年近く昔の話になるが、私が大学(ドイツ文学科)の卒業論文で取り上げたのが、このモルゲンシュテルンの『パルムシュトレーム』という詩集だった。

当時、モルゲンシュテルンの邦訳はほとんどなく、苦労して書いた覚えがある。今も、生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』(岩波文庫、1993)や種村季弘訳『絞首台の歌』(書肆山田、2003)、池田香代子訳『モルゲンシュテルンのこどものうた』(BL出版、2012)があるくらいではないだろうか。

1篇だけとはいえ鷗外が訳していたことを、迂闊にも知らなかった。

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2021年11月15日

濱松哲朗『日々の鎖、時々の声』

hamamatsu.jpg

2012年から2019年に書いた短歌関連の文章を収めた評論集。全体が「T彷徨」「U邂逅」「V呼応」の三部構成となっていて、Tは評論、Uは書評や作品評、Vは時評といった区分になっている。

「塔」に載った評論や時評をはじめ7割くらいは読んだことのある文章であったが、こうして一冊にまとまると著者の問題意識や主張がくっきりと見えてくる。初読の時には理解が届かなかった点も含め、内容の深まりと読み応えを強く感じた。

作者は作品を書き記した途端、第一読者として、作品にとっての〈他者〉として存在するようになるものである。その言葉がどんな魂の奥深くからの叫びであったとしても、言葉になった途端、名指されたそれは既に〈私〉ではない。要するに、あらゆる言語表現は、〈私〉を言語によって〈他者〉化することによって成立しているのである。

作者と読者の問題や短歌の私性をめぐる考察は、本書の中に繰り返し登場する。また、社会や歌壇の抱える構造的な問題やマジョリティによるマイノリティへの抑圧、無意識の暴力性といった点に関しても、著者の追及は鋭い。

全般に固い評論が多い一方で、「坂田博義ノート」や「遅れてきた青春」のような、ややエッセイ風な文章も載っている。そうした文章の持つのびやかさも本書の大きな魅力と言っていい。著者の素顔が見える文章が含まれることで、評論集としての厚みが増しているのだ。

著者のBOOTHにて販売中です。皆さん、ぜひお読みください。
https://tetsurohamamatsu.booth.pm/items/2908334

2021年5月16日、私家版、2000円。

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2021年11月14日

坂井修一『森鷗外の百首』


小池光『石川啄木の百首』、大島史洋『斎藤茂吉の百首』、高野公彦『北原白秋の百首』に続くシリーズ4冊目。

次は晶子か牧水が来るのかと思っていたら鷗外だったので、ちょっと意外な感じを受けた。けれども、読んでみると鷗外の歌の魅力が存分に伝わってきて、確かにこれは外せないなと納得した。

わが足はかくこそ立てれ重力(ぢうりよく)のあらむかぎりを私(わたくし)しつつ
日の反射店の陶物(すゑもの)、看板の金字、車のめぐる輻(や)にあり
火の消えし灰の窪みにすべり落ちて一寸法師目を睜りをり

「重力」という漢語の持つ力強さ、人力車の車輪の「輻」(スポーク)に反射する光の描写、火鉢の灰に落ちた一寸法師という奇想、どれも不思議な味わいがある。

これまで「文人短歌」といった枠組みで余技のように扱われることも多かった鷗外の歌であるが、著者はそこに現代短歌が失ってしまったものを見出している。

大正以降、専門歌人の間では職人的な美意識が強くなりすぎたかもしれない。
鷗外の歌の構図や構想の大きさは、歌壇には継がれなかったようである。

こうした評に、著者の短歌観がよく表れている。

「森鷗外の百首」というタイトルであるが、取り上げられているのは短歌だけでなく、翻訳詩や創作詩も含まれている。「短歌だけ選んで解説したのでは、この巨人の抒情詩人としての魅力を伝えきれない」(解説)という意図によるものだ。

詩歌全般にわたる作品が選ばれたことで、鷗外の文学者・知識人としての広がりが感じられるようになったと思う。伝統と近代、西洋と日本、医学と文学など、さまざまな要素を抱えた鷗外の全貌が垣間見える一冊である。

2021年8月8日、ふらんす堂、1700円。

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2021年11月12日

カワラナデシコと石竹(その2)

けれども、これは子規の間違いだったわけでもないようだ。子規は8月4日に「石竹」の絵も描いていて、「カハラナデシコ」とは明らかに区別している。


 石竹.jpg

(国立国会図書館デジタルコレクションの画像より)

さらに気になるのは、河野自身が2002年に次のような歌を詠んでいることである。

    子規記念博物館にて「草花帖」を求む
励まして絵筆励まして描きし子規カハラナデシコよき淡彩に
紅紫濃きと薄きを工夫してカハラナデシコ四輪を描く
たいせつなこの世の時間の一筆(ひとふで)の濃淡考へて置きしこの色
            河野裕子『庭』

この歌を詠んだ時点では、河野もこの花が「カハラナデシコ」であることに何の疑いも持っていない。それがどういう経緯で2009年の歌では子規の「間違ひ」と思うようになったのだろう?

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2021年11月11日

カワラナデシコと石竹(その1)

なでしこの画を一枚飾るゆゑ暮しの中に子規ありいつも
「カハラナデシコ」と子規直筆にあるなれどこれは石竹(せきちく)、赤紫の花
子規がなぜこんな間違ひをしたのかと百六年後のわたしは思ふ
            河野裕子『葦舟』

正岡子規が「草花帖」に花のスケッチを描いたのは1902(明治35)年8月のこと。8月7日の『病牀六尺』には「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする」という有名な一文を記している。

河野はその「草花帖」の1枚、8月12日に描かれた「カハラナデシコ」を見て、石竹の間違いではないかと詠んでいるのだ。


 カハラナデシコ.jpg

(国立国会図書館デジタルコレクションの画像より)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288389

歌が発表されたのは「塔」2009年7月号だが、「百六年後」から計算すると2008年に詠まれた歌なのかもしれない。

日本の在来種であるカワラナデシコ(ナデシコ、ヤマトナデシコ)と中国原産の石竹(カラナデシコ)は、どちらもナデシコ科ナデシコ属の花でけっこう似ている。でも、河野は「なぜこんな間違ひをしたのか」と手厳しい。

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2021年11月10日

野呂邦暢『野呂邦暢ミステリ集成』


野呂邦暢のミステリ小説8篇とミステリ関連のエッセイ8篇を収めたオリジナル編集の本。

小説は記憶や死者の残した物を手掛かりに深みへ嵌まっていくタイプのものが多く、高橋克彦の記憶シリーズとも似ている。もちろん、野呂の作品の方が古いのであるが。

エッセイはどれも数ページの短さだが、小説の舞台裏を垣間見せてくれる。

ヨーカンでも時計でもいい。初めに具体的な「物」がある。それによって記憶の井戸さらえのごときことが起り、主人公の内部に深く埋れていたものが明るみに出て来る。
世界の本質は謎である。私たちはそれを解くことはできないが世界を形造ることはできる。だとすれば謎を解く必要などありはしない。
初版の同シリーズ(早川のポケットミステリ:松村注)にはひどい訳があった。クリネクスを薄葉紙と訳してあるのは時代だから仕方がないが、文章が日本語になっていないものもあって、本筋の謎よりも訳文を読み解くのがかえってミステリアスであった。そこがいいのである。

なるほどなあ、と思う。「そこがダメ」なのではなく「そこがいい」のだ。誤訳とか、勘違いとか、記憶の変容とか、そうしたものが人生には大切なのかもしれない。

「ある殺人」という小説の中で、医師が

要するにあなたは会社の仕事に追われて神経が参ってるんですよ。かるい運動をおすすめしたいな。朝の十分間、ランニングか縄とびをするとか

と言う。読んですぐに、先日観た映画「草の響き」を思い出した。小説と映画、野呂邦暢と佐藤泰志が、私の頭のなかで混ざり合う。そして、静かに記憶の底へと沈んでいく。

2020年10月25日、中公文庫、1000円。

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2021年11月09日

田島木綿子『海獣学者、クジラを解剖する。』


副題は「海の哺乳類の死体が教えてくれること」。

国立科学博物館に勤務する著者が、20年以上にわたる研究と2000頭以上の調査解剖の経験を踏まえて記した本。私たちのほとんど知らない「海獣学者」の日々が垣間見られて面白い。

2017年に『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』(新潮社)がヒットしてからだろうか、このところ「○○学者の×××。」といったタイトルの本が増えている。

『天文学者が、宇宙人を本気で探してます!』(洋泉社、2018)
『もがいて、もがいて、古生物学者‼』(ブックマン社、2020)
『フィールド言語学者、巣ごもる。』(創元社、2021)

など、各社から続々と刊行されている。本書もその流れと言っていいだろう。

著者はクジラなどが海岸に打ち上げられる「ストランディング(漂着、座礁)」を研究対象にしている。漂着などめったに見られないものかと思っていたのだが、そうではないらしい。

ストランディングは、決して珍しい出来事ではない。クジラやイルカなどの海の哺乳類(海獣)に限っても、国内で年間300件ほどのストランディングが報告されている。

クジラが打ち上がったとの連絡が入ると、何はさておき著者は現場に駆け付け、解剖に取り掛かる。血まみれ臭いまみれの世界だが、ストランディングの原因究明や研究のためには欠かせないものだ。

大型クジラの場合、肋骨や椎骨も、たった1本でさえ、人間が1人で運ぶのは相当困難である。そうした標本の重みを感じつつ、同時に、こんな巨大な動物が、自分と同じ時代に生きている喜びに心が震える。

一冊を通して、著者の海獣に対する思いの強さがよく伝わってきた。

2021年8月5日、山と渓谷社、1700円。

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2021年11月08日

今野寿美『森鷗外』


副題は「短歌という詩型に生涯愛情を持ち続けた文豪」。
コレクション日本歌人選67。

文豪と呼ばれる鷗外が、多面的かつ膨大な実績を残すなかで、短歌という小さな詩型を終生身近にしていたと思えば、それだけで感慨を覚えるし、じゅうぶん読む価値がある。

森鷗外の詠んだ短歌977首の中から48首を選んで鑑賞している。巻末の「観潮楼歌会をめぐって」や随所に挟まれるコラムも充実しており、鷗外にとって短歌とは何であったのかが少しずつ見えてくる。

特に鷗外が新派和歌、中でも与謝野晶子の歌をどう見ていたかという話は面白かった。初めは批判・反発しながらも気になって仕方がなく、やがてその作風の摂取を試みるようにもなる。

  七瀬八峰
むこ来ませ一人はやまのやつをこえひとりは川の七瀬わたりて
書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる
かすれたるよき手にも似てたをやめのまよふすぢある髪のめでたき

これまで鷗外の短歌にはほとんど関心がなかったのだが、この本を読んで興味が湧いてきた。明治から大正にかけて、旧派と新派、日本と西洋、伝統と革新のせめぎ合いの中に生きた知識人の姿が浮かび上がってくる。

2019年2月25日、笠間書院、1300円。

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2021年11月07日

ラインについて(その2)

そもそも、川下りが「ライン下り」と呼ばれるようになったのは、1913年に志賀重昂によって木曽川の風景がライン川に似ていると言われたことに始まる。それをもとに、木曽川は「日本ライン」と命名された。日本の風景をヨーロッパの風景に見立てるという点で、日本アルプスとも共通したものを感じる。

ドイツのライン川にはローレライの伝承で有名な舟下りのイメージがある。そのため木曽川の川下りが「ライン下り」と呼ばれるようになっただけでなく、全国各地の川下りが「ライン下り」を名乗るようになったわけだ。


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今年の夏に天竜川で「天竜ライン下り」をした。天竜峡温泉から唐笠まで約50分の船旅である。運航会社のホームページのURLは
https://tenryuline.com/
本来はライン川の「Rhein」(ドイツ語)であったはずの「ライン」が、英語の「line」になっている。

こうした例は他にもたくさんあって、

「長瀞ラインくだり」 @nagatoro_line
「荒川ライン下り」  http://www.arakawa-line.co.jp/
「鬼怒川ライン下り」 https://linekudari.com/

など、いくつも見つけることができる。語源がライン川であったという意識は、今ではほとんど薄れているのだろう。

posted by 松村正直 at 11:45| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月06日

ラインについて(その1)

京都の宇治から宇治川・瀬田川に沿って滋賀県へ抜ける「滋賀県道・京都府道3号大津南郷宇治線」は、通称「宇治川ライン」と呼ばれている。

宇治川ライン=大津南郷宇治線なので、つい「ライン」=「線」かと思ってしまうのだが、実はそうではない。これはライン川の「ライン」である。

1926年から1975年まで、この宇治川峡谷には観光船が運航していて「宇治川ライン」と呼ばれていた。今は天ケ瀬ダムができて奇岩名勝の多くはダムに沈み、峡谷を通る観光船も廃止されている。

そして「宇治川ライン」という名前だけが、道路の名前として受け継がれているのだ。

宇治名勝御案内附宇治川ライン
(吉田初三郎式鳥瞰図データベース)
https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004816997.html

posted by 松村正直 at 19:42| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月05日

内澤旬子『飼い喰い』


副題は「三匹の豚とわたし」。

千葉県に移住し1年間かけて三頭の豚を飼育し、それを屠畜場に出荷して食べるまでのドキュメンタリー。すごい本だとは聞いていたのだけれど、想像以上にすごい本だった。

豚の交配や分娩を手伝い、三匹の種類の違う子豚を手に入れ、豚小屋を建て、餌をやり、可愛がり、屠畜場へ連れて行き、屠畜の現場を見て、料理にして食べる。豚の命の最初から最後まで全てを見尽そうとする執念に圧倒される。

豚は生後約半年、肉牛は生後約二年半で屠畜場に出荷され、屠られ、肉となる。
生まれた雄は、生後四、五日で去勢をする。去勢をすると雌と同じくらい肉が柔らかくなり、性格も柔らかくなる。

私たちが日常食べている豚は、肉のやわらかな子豚ばかりというわけだ。わずか半年で約110キロまで太って肉となる。

昔と今の養豚の違いについての記述にも考えさせられる。1961年には農家1戸あたりわずか2.9頭であった飼育頭数が、2009年には1戸当たり1436頭に急増している。それだけ大規模化が進み、軒先で豚を飼うような農家は無くなったということだ。

1頭の豚からどれくらいの肉が取れるかについても詳しい。110キロの豚から取れる精肉は51キロ。そのうち、そのまま消費者に売られる「テーブルミート」はわずか23キロ(肩ロース4キロ、ヒレ1キロ、ロース9キロ、バラ9キロ)。残りの腕(12キロ)やモモ(16キロ)は主に加工用になる。

安くておいしいものをいつでも買えることは、いいことだ。少しでも安くておいしくて、安心安全な肉を求めて、消費者は動く。私だって買い手に回ればそうする。しかしお金をもらう側、売る側作る側になってみれば、大変だ。

豚1頭あたり数万円にしかならない現実を知ると、スーパーで豚肉を見る目も少し変わってくるのではないかという気がする。

2021年2月25日、角川文庫、800円。

posted by 松村正直 at 07:54| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月04日

「ちこちこ小間ごと山口晃」展

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今年新たに祇園にオープンした「ZANBI」で開催中の「ちこちこ小間ごと山口晃」展を見る。和菓子屋「鍵屋良房」が運営する美術館。

チラシに載っているのは、「新京都百景 志賀街道 子安観音」。今出川通と志賀街道の交差するところにある鎌倉時代の石仏の風景。浮世絵風の絵の中に過去と現代が入り混じっている。

他にも五木寛之の新聞連載小説「親鸞」の挿画の原画の展示もあり、高い技術と独創的な発想による時空を超えた作品世界を堪能した。


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家に帰って朝日新聞の夕刊を見ると「関西遺産」にコーナーに子安観音が載っている。ちょっとしたことだけど、こういう偶然は嬉しい。

posted by 松村正直 at 23:55| Comment(0) | 演劇・美術・講演 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月03日

自然の中での遊び

最近読んだ2冊の本に、子ども時代の遊びについて同じようなことが書いてあるのが目に止まった。

戦後、宮崎の片田舎に引揚げてきた時、まだ少年だった私は近辺の川や山野をかけめぐり、ひねもす遊びほうけていた。だがその体験がどれだけその後の生に彩りを添え、豊かにしてくれたことか。自然との昵懇な歳月は人を豊かにするというが、最近になってあらためて遊びほうけていた日々が貴重な体験であったことをしみじみと感じている。
(志垣澄幸歌集『鳥語降る』あとがき)
私は(…)少年のころを思い出した。そのころの別府(帯広市:松村注)には天然の森があちらこちらにあった。川は曲がりくねっていた。私にとってその森や川は最も身近な遊び場であり、昆虫を捕ったり、魚を釣ったりして過ごしたものである。そうした日々は私の71年の歳月の中で、キラキラと星のように輝いている。
(時田則雄『樹のように石のようにU』)

70代、80代になっても、自然の中で遊んだ体験や記憶が、こんなふうに人生の大きな支えになっているのだ。

私にはそういう体験があるだろうかと考える。さらに、私の息子にはどうだろうかといったことも思う。

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2021年11月02日

短歌の私性について

よく「私性」か「虚構」か、みたいな議論を目にするけれど、私性こそ短歌における最大の虚構なんだと思うんだけどな。

私性というのは言わばタテマエであって、でもタテマエがあるからこそさらけ出せる本音もあるわけで。単に私性を否定すれば解決するってものでもない。

だから、「サンタクロースなんて本当はいないんだよっ!」と得意そうに言われても苦笑するしかないんだよね。

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2021年11月01日

映画「草の響き」

監督:斎藤久志
原作:佐藤泰志
出演:東出昌大、奈緒、大東駿介、Kaya、林裕太、三根有葵、室井滋ほか

函館を舞台にした佐藤泰志作品の映画化はこれで五本目。特徴のある佐藤の自筆の字がタイトルに使われている。

医師の勧めで函館の街を毎日ランニングする主人公と、妻、親友。そしてスケートボードで遊ぶ3人の若者たち。2つの三角形の織り成す美しい均衡は、やがて破れてしまう。

東出昌大の演技が光る。

冒頭に「函館シネマアイリス25周年記念作品」というテロップが出て、しばし感慨にふけった。25年前、私は函館に住んでいて、シネマアイリスは思い出の多い映画館。

開業2日後に「スモーク」を見たのを皮切りに、「PiCNiC」「天使の涙」「恋する惑星」「イル・ポスティーノ」「トレインスポッティング」など30本以上の作品を見た。あれから25年が経つのか。

京都みなみ会館、116分。

posted by 松村正直 at 07:32| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする