391首を収めた第4歌集。
語り掛けるような口調や暗喩的な表現を用いて、現代の社会や政治状況について繰り返し問い続けている。全体に不安や危惧の色が濃く、記憶や無意識を浮かび上がらせてくるような感触がある。読んでいるうちに、何が確かなことであるのか次第にわからなくなってくる。
いつのことだか思ひ出してごらんだからあんなことなかつたでせう
どの本棚からだつてほんたうのところアンネのへやへはひれます
はじめから手に鎌などついてゐたらたまらなからう蟷螂ひとつ
おほいのは差別にならず三ぼん脚のからすがボールを押さへる
自販機みたいでどうもいけない夜どほしあかるいこのさきのさくら
きのふからそこだつたか花梨の実もうひとつしたの枝とおもふが
おほすぎるとだれも摘まないつくし数つてさういふことだつたんだ
ほんたうに桃とおもへるうちはいい桃だから手にとつてごらんよ
とびあがつたのは鴉の影のはう押さへるところはおさへてゐる
沈んだところのふたつてまへまではみづ切りの石もその気だつた
まだいいからおまへが鴉だつたときにみたことを話してごらん
熱があるのよねと触れてくる手の湿りがどうしやうもなくをんな
蟹くひざるつてのは弱いはうが喰はれつぱなしつてことだものね
寄り道せずに帰つておいでかへれるのをよりみちといふんだけど
どこでどう越えたものだかおもしろいね川がですね右になります
1首目、事実がなかったことにされ記憶が消されていくことの怖さ。
2首目、私たちの暮らしも、一歩入ればアンネの部屋に通じている。
3首目、前脚が鎌でなければ蟷螂は違う生き方をしていたのかも。
4首目、サッカー日本代表のエンブレムにもなっている八咫烏。
5首目、ライトアップされた桜はどこか人工的な空々しさをまとう。
6首目、大きな花梨の実を見ていて、自分の記憶があやふやになる。
7首目、人間の心理を鋭く突いた歌。たくさんあると価値が下がる。
8首目、桃と思っているものが本当に桃なのかがわからなくなる。
9首目、鴉の本体は押さえていて、影だけが飛び上がっていくのだ。
10首目、水に沈む直前までは自分が沈むことになると気づかない。
11首目、こう言われると自分が以前は鴉だったような気分になる。
12首目、女性に対する恐れや怯えの感情が「湿り」から伝わる。
13首目、なるほど、猿蟹合戦というのは弱者が強者に勝つ物語か。
14首目、もう元の場所には帰れなくなってしまいそうな怖さだ。
15首目、左に見えていたはずの川がいつの間にか右に見えている。
言葉の多義性を含む詠み方なので、様々な解釈が可能だろう。何人かでじっくりと読み合ってみたくなる歌集だ。
栞に載っている平井本人の「「遣らず」ト書き控え」は、この歌集について多くのヒントを与えてくれる。でも、自ら解説してしまうのは少し無粋かもしれない。
2021年3月10日、短歌研究社、2500円。