昨年、第2回笹井宏之賞大賞を受賞した作者の第1歌集。
330首を収めている。
生活に初めて長い坂があり靴底はそれらしく削れる
硝子戸の桟に古びた歯ブラシを滑らせ春の船跡のよう
立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる
目薬を点すときうすく口があく近づいてゆく晩年のため
盗むように鎖骨のにおいをかいでいる あなたの夜は琥珀のようだ
呪いって「まじない」だとも読めるけど どちらにしても戻らない猫
クラクフと言っても通じぬ空港でKrakowの文字は電子の光
散るときがいちばん嬉しそうだった、そしてゆったり羽織るパーカー
スノードームに雪を降らせてその奥のあなたが話すあなたの故郷
朝っぱらのぱらを見るためさみどりのカーテンを引く指があること
1首目、新しい町に転居したのだろう。新鮮な気分で長い坂を歩く。
2首目、桟の掃除から「春の船跡」の明るさへ展開するのがいい。
3首目、肩に置かれる手。「泳ぐ」から縁語的に「岸」につながる。
4首目、無意識に開いてしまう口の無防備な感じが老いに似ている。
5首目、「鎖骨のにおい」が独特。たぶん相手も知らない匂いだ。
6首目、「のろい」だと悪い意味だが「まじない」だと良い意味に。
7首目、発音が難しいのだろう。スマホなどの文字を示して伝える。
8首目、人間関係の比喩のようにも読める。一呼吸おいて下句へ。
9首目、スノードームは回想の気分を誘う。雪国の出身なのかも。
10首目、カーテンのひらひらした感じが「ぱら」と合っている。
2020年8月4日、書誌侃侃房、1800円。