2020年09月30日

近藤芳美と高安国世

近藤芳美の歌集を読んでいると、高安国世に関する歌もちらほら出てくる。

気弱くして同じ時代に苦しめば高安君の歌にいらだつ
                   『静かなる意志』
追ひつめらるる思ひ語りしあくる朝訳詩にむかふ君がひととき
                   『歴史』
今の日に無知を羨しとただひとり高安君の葉書吾にあり
                   『歴史』
吾がためにリルケを読めり沈黙より意外にはげしき君の
ドイツ語               『歴史』
ドイツ語の夜学終へたる部屋くらく貧しき青年に君交り居き
                   『冬の銀河』
ミュンヘンに発ち行く友よ土解けし木の間の夜道送り歩みつ
                   『喚声』

名前ではなく「君」「友」と書かれているものも多いが、近藤芳美『歌い来しかた』に歌の背景が記されている。

その高安が突然に上京し、わたしに逢うために来た。四八年の秋だったのか。京橋の職場に来たのを咄嗟にはわからなかった。上京が一つの決意であったと彼は告げた。京都にいて戦災を知らず、戦後の東京の動きを心の焦燥としてその日まで見守っていた。初めて逢い、互いに若者のように語り合った。

戦後の一時期、ふたりの交流は盛んであった。

他にも、大辻隆弘『子規から相良宏まで』に収められている講演「高安国世から見た近藤芳美」では、両者の交流が詳細な年譜とともに語られている。興味のある方は必読です。

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2020年09月28日

近藤芳美と稲妻

近藤芳美の歌集を読んでいると、稲妻の歌がたくさん見つかる。

白じらと乱るるかもめ又遠く立ちて対へり冬の稲妻
                『静かなる意志』
野の低きはてにときなくはためきてはがねの色の一つ稲妻
                『歴史』
カナリヤの雛はとまり木に身をよせて今宵しきりに光る稲妻
                『冬の銀河』
降ることもあらぬ夜毎を野をおおう靄に光りて青き稲妻
                『喚声』
試掘櫓立ちて町ありホルストの地平に蒼き間なき稲妻
                『異邦者』
羽化とげし幼き揚羽窓にいて雨降らぬ夜を間なき稲妻
                『黒豹』
この関りに生き行くかぎり秘めむことば眼覚めてありき梅雨の
稲妻              『遠く夏めぐりて』

キリがないので、これくらいにしておこう。
結句の最後が「稲妻」で終っている歌に限っても、こんなにある。

自伝&自歌自註の『歌い来し方』にも、稲妻に関する記述がある。

 遠い稲妻が、しきりに雲を染めて地平にはためいていた。暗い銅の色である。梅雨が明けると草丘の家のめぐりに、夏野を思わせる夜ごとの靄が立ち沈んだ。

  あかがねの色に照り合ふ稲妻に茫々と野の夜靄立ちつつ

 その稲妻が落雷となるときがあるのか。鋭いひかりが雲を走るが、音は聞えない。

  むかひ立ち吾が息苦し音もなく野の遥かにし落つる稲妻


近藤が稲妻の光のなかに見ていたものは、はたして何だったのか。
歌を読みながら、そんなことを考えている。

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2020年09月27日

近藤芳美とコンクリート

近藤芳美の歌集を読むと、コンクリートを詠んだ歌も出てくる。

一日コンクリート片などいぢりし手の透きとほり又静脈は浮く
今日も又コンクリートに荒れし指水に洗へば寂しさは沁む
                 『静かなる意志』
コンクリート打ちし護岸にむしろ敷き雨は降り覆う海と枯原
                 『喚声』

近藤は昭和36年に東京工業大学から博士号を授与されているが、博士論文のタイトルは「コンクリートの早期亀裂とその防止対策の研究」であった。

なるほど。どうりでコンクリートの歌があるわけだ。

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2020年09月26日

近藤芳美と地下工事

近藤芳美の歌集を読んでいると、地下の工事を詠んだ歌がいくつも出てくる。

地に深くシートパイルを打つひびき夜となる街にひとつ聞ゆる
鉄のやぐら暗くともりて杭を打つ銀座の地下の泥層の中
打ちかけて月に影立つ鉄の矢板かたむきざまに舗装路の上
                『歴史』

これは掘削した穴の側面が崩れないようにシートパイル(鋼矢板)を打ち込んでいる場面だろう。近藤は清水建設に勤める技術者であったが、昭和32年には「地下室構築方法」という特許の発明者となっている。

これは、軟弱地盤の下部に硬質地盤がある場合、まず構造体となる鉄骨柱を地上から地下硬質地盤の中に達するまで圧入または打込み、つぎに上から掘削しながら鉄骨バリを順次かけわたしてゆき、同時に掘削に従つて外側鉄骨柱の外側に山留板を圧入するかまたは土留用の矢板打ちを行い、(以下略)
     「土木学会誌」第42巻第5号の「特許紹介」より

なるほど。どうりで地下の歌が多いわけだ。

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2020年09月24日

母の家へ

1泊2日で母の家に行ってきた。
新幹線と特急「ふじかわ」を乗り継いで4時間、下部温泉駅からレンタカーで約20分。

今回は大学病院へ検査結果を一緒に聞きに行く。
病院は母の家から車で約1時間。
医師の話を5分ほど聞いて、支払いは70円。
みなさん親切で丁寧でありがたいのだけれど、こういうのこそオンラインで済ませられないのかなとも思う。

母の家の裏手は草刈りができずに、ジャングルのようになっている。
そこにヒガンバナが赤く咲いていた。


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母は話に聞いていたよりは元気そうだった。
まあ、僕が知っているのは僕と一緒にいる時の母の姿だけなので、ふだんとは違うのだろうけれど。

身延町から給付された商品券があったので、鉄板焼きレストランにご飯を食べに行った。母はハンバーグランチを頼んだのだけど、僕のステーキ重が来ると「美味しそうね」と言って何切れかつまんだ。


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2020年09月21日

続・斎藤茂吉の城崎温泉問題

どうして城崎温泉を訪れていない斎藤茂吉が、訪れたような話が広まってしまったのか。

その最初のきっかけは『内川村誌』にあったようだ。内川村は兵庫県城崎郡にかつて存在した自治体で、1955(昭和30)年に(旧)城崎町と合併して(新)城崎町となっている。(ついでに言えば、城崎町も2005年に豊岡市や出石町と合併して、今では豊岡市に含まれている。)

その内川村の資料や歴史をまとめた『内川村誌』の「第9編 わが村と文学」に、茂吉の手帳の記述が引用されているのである。内川村は城崎温泉を擁する(旧)城崎町と違ってあまり文化人が訪れる場所ではなかったのだろう。茂吉の手帳に沿線風景が記されているのを、わずかな例として取り上げたのだ。

その後、そこに書かれた内容が引用される過程で、おそらくだんだんと尾鰭が付いていったのではないか。茂吉は城崎町を通過しただけだったのが、いつしか城崎ゆかり人物となり、城崎温泉を訪れたという話になってしまったのである。


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2020年09月20日

外山滋比古『思考の整理学』


今年7月に亡くなった著者のベストセラー&ロングセラー。「刊行から34年 驚異の245万部突破」と帯にある。

ベストセラーと言われる本はあまり読まないのだけれど、この本はさすがに良かった。ものを考えるヒント(答ではなく)がたくさん詰まっていて、考えたり書いたりすることが楽しくなるような内容である。

学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんのすこししかしていない。
夜考えることと、朝考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということを何年か前に気づいた。
独立していた表現が、より大きな全体の一部となると、性格が変わる。見え方も違ってくる。前後にどういうものが並んでいるかによっても感じが大きく変わる。

これは、短歌の連作についても当てはまる話。

中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心の方が活潑に働くのではないかと考えさせるのが、セレンディピティ現象である。
講義や講演をきいて、せっせとメモをとる人がすくなくない。忘れてはこまるから書いておくのだ、というが、ノートに記録したという安心感があると、忘れてもいいと思うのかどうか、案外、きれいさっぱり忘れてしまう。

まったく同感。下を向いてメモしているより話者を見ていた方が、話の内容が頭に残る。

書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。
題名の本当の意味ははじめはよくわからないとすべきである。全体を読んでしまえば、もう説明するまでもなくわかっている。

これも、連作の題や歌集の題を付ける際に踏まえておきたいこと。

調子に乗ってしゃべっていると、自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。
散歩のよいところは、肉体を一定のリズムの中におき、それが思考に影響する点である。

こんな感じで、印象に残った箇所を引いていくとキリがないほどだ。

1986年4月24日第1刷発行 2020年3月5日第122刷発行
ちくま文庫、520円。


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2020年09月19日

斎藤茂吉の城崎温泉問題

「斎藤茂吉は本当に城崎温泉を訪れたか問題」について調べた結果、茂吉は城崎を列車で通っただけらしいことが判明した。

歌集『白桃』に、下記のような歌がある。

ひとびとは鮎寿司くひてよろこべど吾が歯はよわし食ひがてなくに
丹波より但馬に汽車の入りしころ空を乱して雨は降りたり
かきくらし稲田に雨のしぶければ白鷺の群の飛びたちかねつ
白鷺がとどろく雨の中にして見えがくれするさまぞ見にける
西北の方より降りて来しものか円山川に音たつる雨

これは昭和9年7月21日に茂吉が大阪から列車で島根県の大田市に行った時の車窓風景を詠んだものである。その行程は「手帳31」に詳しい。

○福地〔知〕山(十一時十二分、ベン当、鮎ずし売ル。/○豊岡〈ベン当〉に近づくころ、大雷雨降る、/○大川〈円山川〉に沿うて走る、帆船浮ぶ 玄武洞駅ノアタリ也 小舟浮ぶ 渡舟也
0時三十三分城崎/○香住〈トマラズ〉コヽヨリ大乗寺ノ応挙ヲ見タリシ也。/

「鮎ずし」「円山川」など、歌に対応する記述が確認できる。

ここで注意したいのは、城崎駅で降りてもいなければ、まして温泉に浸かったりなどしていないことだ。ただ列車で通っただけである。

当日の日記を見ても

  七月二十一日 土曜、晴、后大雨
朝八時五分大阪駅ヲタツ。土屋、高安、岡田氏等オクル。途中ヨリ大雨フリ。午后六時五十八分石見太〔大〕田着橋本屋ニ投宿。入浴、食事シ何モセズ寐。雨降リ止マズ。

とあるばかり。城崎温泉のことになど一言も触れていない。

ちなみに大阪駅で見送った人々の中に「高安」とあるが、これは高安国世ではなく母の高安やす子のことである。


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2020年09月17日

玄武洞

豊岡演劇祭のついでに、近くの玄武洞にも行ってみた。
160万年前の火山活動によって形成された柱状節理が有名なところ。


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対岸のJR玄武洞駅から玄武洞ミュージアムが運営する渡し船が出ている。片道7分、400円。今ではほとんどの観光客が車で直接玄武洞に来ているようだけれど、この渡し舟はおススメ。円山川の川風が心地よい。→渡し船のチラシ


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今回、玄武洞に来て初めて知ったことがいくつかある。

・玄武洞自体は自然にできた地形だが、洞になっている部分はかつての石の採掘跡。
・玄武洞だけでなく、青龍洞、白虎洞、北朱雀洞、南朱雀洞もある。
・玄武岩の名前は玄武洞に由来している。

有名な観光地には「写真で見た時はすごかったけれど、実物は今ひとつ」というものがけっこう多いのだが、この玄武洞は反対に、写真で見るより実物の迫力が上回っている。


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こちらは青龍洞。
柱状節理の美しさでは玄武洞より上かもしれない。


玄武洞はかつてはもっと規模が大きかったらしい。1925(大正14)年の北但馬地震でかなり崩落してしまったのだ。大正時代の絵葉書を見ると、ギリシア神殿のように整然と洞窟に柱が立っていた様子がわかる。

当時は洞窟の中にも自由に入れたようで、そんなのどかな時代が今では羨ましい。

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2020年09月16日

斎藤茂吉は本当に城崎温泉を訪れたのか問題

現在、調査中。

ネットでは城崎温泉を訪れた文人として、あちこちに茂吉の名前が挙がっているのだけれど、本当なのかな。どうも誤った情報をコピペしているだけのものが多いようだ。ネットの情報を軽々しく鵜呑みにはできない。

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2020年09月15日

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』


副題は「日本経済は「安心の原理」で動く」。

7年前に刊行されてベストセラーになった本をようやく読んだ。里山をキーワードに、今の日本が抱える問題点への対策を論じている。

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。お金が乏しくなっても水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予め用意しておこうという実践だ。

こうした考えのもとに著者が掲げるのは以下の3つのことである。

・「貨幣換算できない物々交換」の復権
・「規模の利益」への抵抗
・分業の原理への異議申し立て

これらは田舎暮らしをしていなくても、それぞれの生活の場で実践可能な考え方だろう。今では工場の現場でもライン生産からセル生産方式への切り替えが進んでいる。もはや大量生産・大量消費の時代ではない。

経済成長のために、地域を安価な労働力や安価な原材料の供給地とみるのではなく、地域に利益が還元される形で物つくりを行う。ただし、そのために自分たちが犠牲になる必要もない。自分たちも、ちゃんと利益をあげる。

本書では「エコストーブ」「木造高層建築」「CLT建築」「ジャム作り」「自然放牧の牛乳」など、様々な実例が紹介されている。読み終えて少し明るい気分になれる一冊だ。

2013年7月10日、角川ONEテーマ21新書、781円。


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2020年09月14日

書店文化

昨日の読売新聞朝刊に日本在住のアメリカ人の方の「書店文化これからも」という投書が載っていた。

近年のアメリカでは、インターネット通販や電子書籍が普及した影響で、多くの書店が姿を消し、珍しい存在になってしまいました。ですから、昨年来日した時、日本には書店がいっぱいあって驚きました。

以前サハリンに行った時も同じような話を聞いた。世界的に書店が数を減らしているのだろう。もちろん、日本も例外ではなく、書店数は20年前に比べて半減している。

京都でも今年に入って四条通りのジュンク堂京都店や、歌集を多く置いていた三月書房が閉店した。残っている書店でも、本の売り場を縮小して文具や雑貨の売り場を広げたりしている。

地元の商店街に本屋があり、大きな街に行けば書店が何軒もあるという状況は、夢のように幸せなことだったのだろう。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、せめて本を買う時はできるだけ書店や全国書店ネットワークe-honで買うようにしたい。

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2020年09月13日

室内オペラ「零(ゼロ)」

作曲・指揮:中堀海都
作・演出:平田オリザ

「豊岡演劇祭2020」での公演。アリアと演劇が交互に行われる珍しい形式のオペラ。

1、イントロダクション
2、アリアT
3、演劇@
4、アリアU
5、演劇A
6、アリアV
7、エンディング

という構成になっている。

アリアと言っても朗々と歌うのではなく、舌をタンタン鳴らしたり、短い発声や息づかいを聞かせたりといったもの。演奏も大きな音で曲を奏でるというよりは、一つ一つの音を出したり、合わせたり、刻んだりする。

何とも不思議な体験だった。

70分、豊岡市民会館。

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2020年09月12日

水原紫苑歌集『如何なる花束にも無き花を』

 mizuhara.jpg

2017年9月から2020年5月までの作品472首を収めた第12歌集。

キリストもブッダも犬にあらざれば信に足りずとおもふ秋かな
梅咲けば未來おもほゆさくら咲けば過去(すぎゆき)おもほゆいづれにも無きわれ
鳥歩む春を生きつつ日本語を超え得ざること怒りのごとし
睡蓮はけふも開けり五月より九月に至る夢あるいは死
卵黄に春の曇天あふれつつ死に死に死にてあかるきものを
背景の左が白きままなりしセザンヌ夫人愛を知るべし
いつの日も蜜柑は城の姿にて若き城主を守るつゆけさ
トルストイとドストエフスキー咲くごとき二本(ふたもと)の椿に鴉飛び交ふ
風の骨あらはに見ゆるきさらぎを過ぎゆけるひとみな扇(あふぎ)かも
韓國を敵と言ひなす人々の怯えぞふかき底紅(そこべに)の木槿

1首目、一番信じられるのは神でも仏でもなく犬だったのだろう。
2首目、未来や過去の長い時間に比べれば、生きている時間は短い。
3首目、日本語を使うことは日本語の制約を受けることでもある。
4首目、数日間咲いたり閉じたりを繰り返す睡蓮の花の幻想的な美。
5首目、上句がいい。割った卵から現われ出る卵黄の色の明るさ。
6首目、塗り残されたままの背景に、かえって深い愛を感じる。
7首目、発想が面白い。蜜柑の城の中に守られている若き城主。
8首目、19世紀のロシアを代表する二人の文豪に喩えられた椿。
9首目、冷たい風に吹かれて人間の骨格もあらわに見える感じ。
10首目、木槿は韓国の国花。ヘイトの裏にある「怯え」を見抜く。

2020年8月15日、本阿弥書店、2700円。

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2020年09月11日

蓮華寺(その4)

蓮華寺と言えば・・・亀である。

石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け
                 『たかはら』

昭和5年の「近江番場八葉山蓮華寺小吟」の一首。
この歌には詞書がある。

この寺に沢ありて亀住めり。亀畑に来りて卵を生む。縞蛇という蛇、首を深く土中にさし入れて亀の卵を食うとぞ

何とも生々しい話である。
茂吉は「作歌四十年」で、この歌について次のように書いている。

この寺の裏手に池がある。水も湧き雨水が溜まって幽邃なところである。そこの石亀が陸地にあがって来て卵を生むと、蛇がその卵を呑む事実を、ここの寺の石川隆道さんが話してくれた。亀は卵を呑まれるとも知らず、心を安んじて池に帰ってゆくさうであった。蛇は多分地むぐりという奴で、何でも首をつきさすやうにして亀の卵を発見するさうであった。私はこの話にひどく感動して、いろいろと難儀して作ったがどうにか物になったやうである。

ここで「感動」とあるのは、文字通り深く感じて心が動いたという意味だろう。いかにも茂吉らしい。

さて、今回、蓮華寺の境内を歩き回ってみたところ、3か所に池があった。


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本堂前の小さな池。


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本堂とつながる庫裡の庭園にある池。

亀の姿は見えなかったが、いただいたパンフレットに「庭園の池でゆったりと泳ぐ鯉と甲羅干しのため池から上がった亀のユーモラスな姿が心を和ませます」と記されている。


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本堂の裏手にある鬱蒼とした池。

茂吉が「この寺の裏手に池がある。水も湧き雨水が溜まって幽邃なところである」と書いているのを見る限り、歌に詠まれた亀はこの池のものではないかと思う。


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2020年09月10日

蓮華寺(その3)

蓮華寺は想像していたよりもだいぶ大きな寺であった。浄土宗の寺としては、総本山の知恩院、大本山の7か寺に次ぐ地位を占めているようだ。
http://otera.jodo.or.jp/honzan/

現在では浄土宗であるが、昭和17年までは時宗に属していた。ただし一遍とは関係なく、一向上人(俊聖)が開いた寺である。それが江戸幕府の宗教統制により時宗に組み込まれ、時宗一向派の大本山となっていた。

明治以降、一向派は何度か時宗からの独立を政府に願い出たのだが、その請願委員の一人が若き日の窿應和尚であった。結局独立は達成できなかったものの、一遍派とは別の宗規を定めることが認められるという成果を勝ち取った。

窿應和尚が山形の宝泉寺から、時宗一向派大本山の蓮華寺の住職になったのは、そうした経緯を受けてのことだったのだろう。つまり大抜擢だったわけだ。

大正8年に蓮華寺住職となった窿應和尚は、大正13年に脳出血で倒れて寝たきりの生活を送ることになる。茂吉の訪問はその見舞いを兼ねてのものであった。その様子を描いた額が寺には飾られている。


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昭和6年の死に際して、茂吉は「窿應上人挽歌」10首(『石泉』)を詠んでいる。

みほとけに茶呑茶碗ほどの大きさの床ずれありきと泣きかたるかな
右がはの麻痺に堪へたる御体ぞとおもへば九とせは悲しくもあるか

右半身麻痺の生活が9年にも及び、身体には大きな褥瘡ができていた。茂吉の悲痛な思いがよく伝わる。


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本堂裏手に立つ「一向杉」。

一向上人が荼毘に付された後に植えられたと伝えられる杉で、樹齢700年。高さ30メートル、幹の周囲は5メートルになる。途中から太く枝分かれしている姿が印象的だ。

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2020年09月09日

蓮華寺(その2)

蓮華寺は鎌倉時代末の元弘3年(1333年)5月9日に北条仲時以下432名が亡くなった場所としても知られている。仲時は京都の六波羅探題北方であったが、後醍醐天皇方に付いた足利尊氏らに攻められ、中山道を通って東国へ逃れる途中で自害したのであった。享年28。

 このみ寺に仲時の軍やぶれ来て腹きりたりと聞けばかなしも
              斎藤茂吉『ともしび』
 北条の軍といふともはばまれて亡ぶる時はこの山の陰
              土屋文明『自流泉』

もっとも、東国まで無事に落ち延びたとしても同じ運命だったのだろう。5月22日には北条氏の本拠地鎌倉が新田義貞らによって攻略され、仲時の父基時をはじめ一族の多くが戦死または自害している。


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北条仲時以下四百三十余名自刃の供養墓碑。

亡くなった方々の姓名と年齢を記した過去帳の写しも本堂内に展示されていて、見ることができる。


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門の前を流れる「血の川」。
今はもう血は流れていない。


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2020年09月08日

蓮華寺(その1)

滋賀県米原市にある蓮華寺に行ってきた。
JR米原駅から約4キロ、旧中山道の番場宿から少し入った所にある。


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本堂の額は後水尾天皇の宸筆で、元禄11年(1698年)のもの。

この寺の第49世の佐原窿應(「窿」は正しくはウ冠)は、斎藤茂吉が幼少時に手習いを受けた人物。茂吉の生家近くの宝泉寺の住職を長く務めた後、大正8年に蓮華寺住職となり昭和6年に亡くなった。


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本堂左手に立つ茂吉の歌碑。

「松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ」


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本堂の脇には、こんなふうに茂吉の歌の掲示もある。


斎藤茂吉は生涯に4度この寺を訪れ、それぞれ歌を残している。

この寺に窿應和尚よろこびて焦したる湯葉われに食はしむ
 『つゆじも』 大正10年「長崎を去り東上」に3首
茂吉には何かうまきもの食はしめと言ひたまふ和尚のこゑぞきこゆる
 『ともしび』 大正14年「近江蓮華寺行其一、其二」計12首
となり間に常臥しいます上人は茂吉の顔が見えぬといひたまふ
 『たかはら』 昭和5年「近江番場八葉山蓮華寺小吟」19首
窿應上人のつひのはふりとわが妻も二人はともにこの山に居り
 『白桃』 昭和8年「番場蓮華寺」5首

さらに『石泉』の昭和6年「窿應上人挽歌」10首も加えれば、茂吉が蓮華寺を詠んだ歌は約50首にのぼる。まさに「斎藤茂吉のファンなら一度は行ってみたい場所」(永田和宏『京都うた紀行』)なのである。

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2020年09月07日

外山滋比古『省略の文学』


今年7月に亡くなった著者の切れ字を中心とした俳句論、日本語論、日本文化論など、計18篇が収められている。短詩型文学の実作者でも研究者でもないが、内容は示唆に富んで実に面白い。

切られた言葉が大きな表現効果を持つのは、それにつづく沈黙の空間で残響が増幅されるからである。
切字の切れ方は連句における句と付句の距離を原型としているのではなかろうか。連句における句と句の空間は小さくない。
俳句においては作者自身の作意ですら絶対的権威をもっていない。
作者と読者とが対話的コミュニケイションの場をもっているところに、俳句があのような短詩型で定立しえたもう一つの理由がある。
ことばを最大限に生かして使うには、一つ一つのことばをなるべく離して、大きな空間を支配するように配列すればよいはずである。それには、囲碁における布石が参考になる。
もし、人間関係によってことばづかいが違ってくるものならば、逆に、ことばづかいによって人間関係が決定されるという命題も成立するはずである。

40年以上前に書かれた本であるが、少しも古びていない。深い思索に基づいた論考は、ちょっとやそっとで古びたりはしないのだ。

人間でなくてはできないと思われていた作業が次々に機械によって行なわれるに至って、われわれは人間の能力の再認識をせまられているのである。新しい技術文化は新しい人間観の確立を求める。
教育というものは元来、保守的であるから、新しい時代に適応するのにいつも遅れがちになるが。まだ人間をコピー的活動から解放しようとはしていない。相変わらず記憶中心の知識の詰め込みを行なっているが、それは、人間が記憶する唯一の機械であった時代の要求に基づいた教育そのままである。

こうした文章は、近年のAIの発達やアクティブラーニングの推進といった状況を、はるかに先取りしたものだろう。この人はすごいな。

1976年4月25日、中央公論社、950円。


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2020年09月06日

百々登美子歌集『荒地野菊』

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第10歌集『夏の辻』(2013年)以降の作品617首を収めた遺歌集。作者は2019年6月28日に89歳で亡くなった。

亡き人の蔵書のゆくへ思ふなりあつらに雪の降りし夕ぐれ
風よけて静止画像となりてゐる蝶の交(つが)ひも少しかげりぬ
さまざまな笑ひ方などして遊ぶ玻璃のむかうに寒椿咲く
古(いにしへ)は千ほども色彩(いろ)を言ひ分けて人はゆたかにありしと聞けり
盛りあがる卵黄割りつ生卵呑むは人間と蛇のみといふ
子のなきを羨しと寄り来ふり向きざま一刀に切ることばが欲しき
人もけものも子をつれてゐる動物園に来て抱けるかたちつくづくと見ぬ
眼薬の落ちてくる間よまなうらを駆け抜けてゆく人の群見ゆ
胸ふかくギター抱へて内面は小さき音のみに出ると言ひしも
穴あきし帽子をかぶり終日を釣りゐる父はをらず鴨浮く
庭住みの大き蝸牛を踏み破(や)りし足裏をこする音消ゆるまで
重なりて土俵の下に落下する肉体の弾力寝際に思ふ
呼子笛吹きたてながら保護者のみ目立つ子どもの神輿巡りぬ
転びたるままに仰げる高き空何の救ひもみせず澄みをり
軽装の看護師たちのゆきちがふ身軽さまぶし御用納めの日

1首目、大切にしていた蔵書も、亡くなれば処分されてしまう。
2首目、葉の影などで交尾しているところ。「静止画像」がいい。
3首目、一人の部屋で窓ガラスに向かって笑顔を作って遊ぶ。
4首目、微妙な色の違いを感じ分けて表す言葉を持っていたのだ。
5首目、「人間と蛇のみ」だったとは!生卵を食べるのが怖くなる。
6首目、子を持たぬことに対する本人にしかわからない激しい思い。
7首目、檻の中の動物も見ている人間も、それぞれ子を抱いている。
8首目、目薬が落ちる一瞬、走馬灯のようにめぐる記憶の中の人々。
9首目、演奏する時、大きな音ではなく小さな音に感情が滲み出る。
10首目、釣り好きな父だったのだろう。幻のように目に浮かぶ。
11首目、殻が割れる無残な音と感触が足裏にこびりついている。
12首目、力士の肉体の重量感がふいに甦る。「重なりて」がいい。
13首目、主役の子どもよりも、親たちの方が盛り上がっている。
14首目、自らの老いを詠んだ歌。仰向けに転倒して見た空の青さ。
15首目、入院して迎えた年末。自分は家に帰れずに年を越すのだ。

2020年7月15日、砂子屋書房、3000円。


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2020年09月04日

短歌三昧

10:30〜12:30
朝日カルチャーセンター芦屋教室で「はじめての短歌」。参加者12名。田宮智美歌集『にず』の話をして、その後、受講生の歌の批評をする。

13:30〜17:00
東灘区文化センターで「フレンテ歌会」。参加者9名。題詠「あっけらかん」1首と自由詠1首。「パンの耳」4号についての打ち合わせも行う。「フレンテ歌会」は新しい参加者を募集中なので、お気軽にお問い合わせください。

21:30〜23:30
平出奔さん・橋本牧人さんのツイキャス「塔読むキャス」を聴く。毎週金曜日の夜に「塔」の歌を読んでいる熱心な二人。次回は9月11日(金)21:30〜。
https://twitcasting.tv/touyomucas/


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2020年09月03日

伊藤宏『食べ物としての動物たち』


副題は「牛、豚、鶏たちが美味しい食材になるまで」。

家畜(豚、鶏、牛)がどのように育てられ、食肉となっていくかを、写真や図をまじえて詳しく記した本。

現在の肉豚の多くは、出荷日齢は一六〇日、出荷体重が一一〇kgということになってきている。
今の鶏の大部分はとうに就巣性というものがない、いや、なくさせられているから、産んだ卵にはまったく関心を示さずに唯々卵を産み続ける。
一般に卵用鶏の雄雛は育つのが遅く、その肉質もよくないので、しかるべく処分される。(・・・)良好なタンパク質供給源として加工処理され、他の動物に与えられる素材になるという。
盛んに産卵を続けてきた鶏も、四〇〇卵以上を産むとさすがに疲れが出始め、休産日が多くなる。系統によって、それぞれの採算ベースが決められているので、個体の成績には目もくれずに一斉に処分される。いわゆる廃鶏と称するものになる。
ここ三〇年ばかりの間に、ブロイラーの成長は著しく速くなり、出荷日齢は、一九六〇年代の一二週齢から、六〜七週齢へと短くなってきた。
生まれる子牛の半分は雄であり、種牛候補として残されるのは二〇〇頭に一頭もいないだろう。したがって肥育用の素畜となる雄子牛は、未成熟の生後二〜三ヵ月の間に去勢して、第二次性徴が現れないようにする。

わずか6か月で110キロまで太らされて出荷される豚、生まれてすぐに処分される卵用鶏の雄の雛、400個の卵をひたすら産み続けた後に処分される雌鶏、生後2〜3か月で去勢されてしまう雄牛。

知れば知るほど、何ともすさまじい世界だ。家畜の育成はどんどん合理化され、工業製品と同じように徹底的に生産性が追求されている。

こうした実態を頭の片隅に置いて、日々の肉を食べなくてはいけないのだと思う。

2001年8月20日第1刷発行、2012年10月1日第4刷発行。
講談社ブルーバックス、940円。


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2020年09月01日

榊原紘歌集『悪友』

著者 : 榊原紘
書肆侃侃房
発売日 : 2020-08-05

昨年、第2回笹井宏之賞大賞を受賞した作者の第1歌集。
330首を収めている。

生活に初めて長い坂があり靴底はそれらしく削れる
硝子戸の桟に古びた歯ブラシを滑らせ春の船跡のよう
立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる
目薬を点すときうすく口があく近づいてゆく晩年のため
盗むように鎖骨のにおいをかいでいる あなたの夜は琥珀のようだ
呪いって「まじない」だとも読めるけど どちらにしても戻らない猫
クラクフと言っても通じぬ空港でKrakowの文字は電子の光
散るときがいちばん嬉しそうだった、そしてゆったり羽織るパーカー
スノードームに雪を降らせてその奥のあなたが話すあなたの故郷
朝っぱらのぱらを見るためさみどりのカーテンを引く指があること

1首目、新しい町に転居したのだろう。新鮮な気分で長い坂を歩く。
2首目、桟の掃除から「春の船跡」の明るさへ展開するのがいい。
3首目、肩に置かれる手。「泳ぐ」から縁語的に「岸」につながる。
4首目、無意識に開いてしまう口の無防備な感じが老いに似ている。
5首目、「鎖骨のにおい」が独特。たぶん相手も知らない匂いだ。
6首目、「のろい」だと悪い意味だが「まじない」だと良い意味に。
7首目、発音が難しいのだろう。スマホなどの文字を示して伝える。
8首目、人間関係の比喩のようにも読める。一呼吸おいて下句へ。
9首目、スノードームは回想の気分を誘う。雪国の出身なのかも。
10首目、カーテンのひらひらした感じが「ぱら」と合っている。

2020年8月4日、書誌侃侃房、1800円。


posted by 松村正直 at 21:11| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする