調べてみると「セン」という字だった。「潺湲」という熟語になっていて、「さらさらと水の流れるさま。涙がしきりに流れるさま」を意味するとのこと。
かつて谷崎潤一郎が過ごした京都の書斎が「潺湲亭」という名前だったそうな。
https://nissin.jp/sekisontei_project/02.html
電気が最初に来た日は、何時ごろ電気が来ますと町内でふれ合って、時計を見ながらみんなで待っているんです、電気を。傘もない裸電球ですけれども。そのときの驚きとうれしさはなかったですよ。「それで世の中が開ける」という言葉が家では定着していました。その最初を開いてくれたのは会社だ、と。
「チッソ」とはいっていませんでしたね。いまでも「チッソ」とはいわない。水俣に行けば「会社」という。
うれしかったですよ。だって、大人たちが「市になってよかった」と。日本の近代というのは田舎をなくそうということだったでしょう。それで、「田舎者」という言葉がありますように、「いなかもん」といわれるほど屈辱はない。
手袋をはめた朝から冬だから落ち葉の道を立ちこぎでゆく
森 雪子
全身に父の血母の血鳴り響くわたしはとてもいびつな楽器
田村穂隆
つぎつぎと二百の画面は暗みゆき二台の「社員さん」が灯りぬ
栗山れら
スコープに見ゆる胃の荒れはわたくしのストレスにあらず
ハイターの跡 故 柴田匡志
茗荷には茗荷にしかない色がある細く刻みて豆腐に載せる
丸山順司
どれよりも高く担がれヨコスカを米兵神輿がねりあるきゆく
北島邦夫
五十年前に出会いし三つ編みの少女が今はわれに指図す
坂下俊郎
ありがたうすみませんなどもう言はず一日黙つてゐたい病室
岩野伸子
いつまでも空き缶つぶす音がする妻を亡くしし人の庭より
竹下文子
男殺油地獄がもしあればあぶらはもっともっとひつよう
大森静佳
四つに組む力士のように舞茸の天麩羅ふたつ皿の上にあり
天野和子
干し首のごとき玉葱が吊られをりコーラあかるきヴェンダー
の陰 篠野 京
手の内の小さき画面に雨雲の無きを確かめスーパーへ行く
畑久美子
子供なら跳んで渡つて遊ぶだらう礎石が並ぶ国分尼寺跡
岡田ゆり
日本国内での地上戦は沖縄戦(1945年3月26日〜6月23日)が唯一のものだったと信じている人は今も少なくない。樺太地上戦は日本人の記憶から失われたというよりは、認識すらされてこなかった歴史だった。
沖縄戦を当時、国はどう見ていたのか。内閣情報局が毎週発行していた「週報」から窺い知ることができる。1945(昭和20)年7月11日号で、沖縄戦について大本営報道部は、「3か月の貴重な時を稼いだ」とし、「作戦的勝利」と称賛している。
樺太(サハリン)の戦場で犠牲になった5000人とも6000人ともいわれる人々。その多くは民間人であったが、民間人と特定できる遺骨はいまだに1柱も日本に戻っていない。
東京愛国五輪「日本ガマタ勝ッタ!」この永遠の戒厳令下
過労死の心霊もいるスポットと呪縛うれしき新国立競技場
駅前にアイドルならび声そろえ「千人針にご協力くださーい!!!」
新国立競技場のトラック喘ぎつつ夜ごと円谷幸吉走る
タブロイド版の見出しの大文字の「国民精神総動員(ONE TEAM)」 珈琲苦し
向日葵の数限りなく立ち枯れて向日葵畑そのジェノサイド
新国立競技場には屋根ありて雨に濡れざる学徒出陣
彼はその後、キャベツ中心の大規模農家になりました。今はそのビジネスの成就に心血を注いでいるようです。当時は一緒に新しい試みを模索していましたが、今ではまったく交わることが無くなってしまいました。(柴田道文)
西村さんのインタビューの後にこの土地から離れていった人も沢山いましたし、私が『のんびり』に必死すぎたせいで、秋田に居ながらにして距離が生じてしまった人も多く、半ば強制的に自分の足で立たなければならなくなった。(矢吹史子)
氷見には2013年以来通えていないけど、子どもが生まれた子もいて、元気にしているという便りをもらっている。自費出版の写真集をみんなに届けに行ったのが最後です。(酒井咲帆)
君が好きなロングヘアを切る日にはうるさいくらいセミが
鳴いてた 大塚 響花 (福井県)
閉ぢていく景色の中で君だけがいつもしづかな月光だつた
島田 佳可 (熊本県)
ワイシャツの袖をまくりて草を刈るあなたを塩のように愛した
長谷川 美智子 (愛知県)
君はもうこの角部屋には来ないから首を振らない扇風機一つ
宮本 大乃心 (京都府)
僕はひとりぼっちのフリーランスで、バナナの積み込み作業をして戦場に行き、編集部に写真を届け、1枚も使ってもらえずに、また積み込みをしてお金が貯まると戦場に行くという繰り返しでした。
悩んだときにはゴー。悩んだそこには答えがある、と思うんですね。
21世紀はインターネットが発達して、取材の仕方、発表媒体、掲載のスピードなど様々な条件が変わってきています。しかし、基本のアプローチはアナログだと思います。
移動の段取りを自分で組み、手探りで進むことで、町の名前や思い出、移動手段のバス会社の名前などのひとつひとつがインプットされる。これもまた大切な取材の一環ですね。
商売にせよ遊びにせよ、何事においても基本やっぱり“一人でできる”ということですよね。「自立」というか個々のパワーアップがないと、最終的に単なる村社会のようになってしまう。(柴田道文)
山菜やきのこの採り方だったり、いろんなことを知っていて。「なにもなくても生きていけるぜ」っていう、生きる力っていうのかな。それをすごく持っている人がたくさんいて。(柏ア未来)
欧米では公(public)・共(Common)・私(Private)の三つは別々の概念として捉えられている。(・・・)ところが日本では「公共」という言葉で、このうちの二つが一緒くたになっている。(徳吉英一郎)
中央/地方と分けてとらえること自体に違和感がある。僕の中でそれらの領域の境目が薄れてきている感じがあるんです。(田北雅裕)
フィジカルをケアしておけばいいと言ったのは、物事に反応する自分自身が変わっていくから。たとえば健康になると気分がいいから、またジョギングやろうかなって気になったり。(豊嶋秀樹)
先住民問題とは石器時代に遡る話ではなく、多くの場合、近代史の産物なのです。
現在に伝わるアイヌの伝統文化が花開いたのは、実は和人との経済関係でいえば場所請負制の全盛期にあたる18世紀後半から19世紀にかけての時期であるともいわれています。
アイヌの近代においては、政府が強要する「同化政策」とアイヌ自身による自発的な「文化変容」を分けて考える必要があるのです。
実際には和人のアイヌへの同化という現象も見られたにもかかわらず、アイヌと和人の通婚によって、アイヌのほうが一方的に和人へ同化し、アイヌという固有の民族は消滅する、と考えられていた(…)
謎めいたクリール諸島はどんなロマンずきな人にも旅行者にも天国です。 近づきにくいこと、人が住んでいないこと、地理的に孤立していること、活火山、少ない情報などが、この霧や噴煙につつまれ、たくさんの秘密をもつ元日本軍の基地のある島々へ人々をひきつけずにはおかないのです。
あやまれる蒋介石の面前に武漢おちて平和建立第一歩
武漢三鎮なだるるなして落ちしかば我が心今日も呆(ほ)けたるごとし
漢口は燃えつつありといふ声のそのかたはらに人声(ひとごゑ)きこゆ
漢口にすでに雪ふるありさまが映画となりてわれに見しむる
長崎歌会 大正七年十一月十一日 於斎藤茂吉宅 題「夜」
はやり風(かぜ)をおそれいましめてしぐれ来し浅夜(あさよ)の床に一人寝にけり
十二月三十日。十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より
来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ
四歳(よんさい)の茂太(しげた)をつれて大浦(おほうら)の洋食くひに今宵(こよひ)は来たり
はやり風はげしくなりし長崎の夜寒(よさむ)をわが子外(と)に行かしめず
寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰(おとろ)へぬ長崎の年暮れむとす
一月六日。東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に
大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予
夜半より発熱、臥床をつづく
はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現(うつつ)ともなし
てのひらにてのひらをおくほつほつと小さなほのおともれば眠る
かの家の玄関先を掃いている少女でいられるときの短さ
井戸の底に溺死しているおおかみの、いえ木の枝に届く雨つぶ
テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥(かもめ)のひとみ
柿の木にちっちゃな柿がすずなりで父さんわたしは不機嫌でした
七人の用心棒にひとつずつ栗きんとんをさしあげました
信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも
お別れの儀式は長いふぁふぁふぁふぁとうすみずいろのせんぷうきのはね
気持ち悪いから持って帰ってくれと父 色とりどりの折り鶴を見て
羽音かと思えば君が素裸で歯を磨きおり 夏の夜明けに
クジラは地球始まって以来、最大の生きものである。
シロナガスクジラは、かつての恐竜よりもさらに大きく、最大記録は30メートルに及ぶ。これはボーイング767の機体とほぼ同じ長さである。
ホエール・ウォッチャーの間では、自分でクジラを発見すると「僕のクジラが潜った」とか「私のクジラを見せて上げる」などと、まるで発見した人に全ての権限があるかのような発言が飛び出します。
当時(19世紀:松村注)の捕鯨は大きな経済活動であり、産業としての位置づけは、現在想像するよりもはるかに重要なものであった。
一斉にはばたく音に振り向けばいま満ちてゆく木蓮の花
胎動の腹に手を当て耳寄せて〈父〉とは遠きアプローチなり
手のひらにおさまるほどに畳みゆく小さくなったこの春の服
白衣着て消すわたくしのわたくしをロッカー室のハンガーは吊る
くちびるがおしゃぶり落としみどりごの浅き眠りは岸離れたり
コイケヤがカルビーを論破してゆくを半開きの耳のままに聞きたり
パンくずを残してわれのヘンゼルとグレーテル もう、帰っておいで
あちらとこちら行ったり来たり行ったきり「わたし、しぬの?」という問いのなか
もうこんな時間になった昼よりも重たく沈むリラの香りは
食べるのがしんどい母の病床にお守りだった赤紫蘇ゆかり
にんげんの死にゐる重み抱きたるマリアにほそき蠟燭ともす
汗のにじむ肌(はだへ)のごとく街の灯を浮かべて昏く流れゆく川
人に名を初めて呼ばるその声の新しきまま夏となりゆく
国籍を再び問はるテロ警戒巡視パトカー戻り来しのち
空港は風の立つ場所 セキュリティゲートを二回裸足でくぐる
坂道の続くゆふぐれ死んでゐる魚を提げて女歩めり
座りゐる(だらう)ギターを弾く(らしき)女、キュビズム風の絵画に
歯舞をすぎてバスの車掌が、
「カワイさん前」
と呼ぶ。北海道の田舎を旅行していると「タカハシさん前」とか、「キムラさんのお宅前」という名のバスの停留所にあう。広々とした原野の中にぽつんと一軒、サイロウを持った農家がある。(北海道ノサップ)
鉄道東海道線が開通して回船制度が消滅すると、同時にそれは妻良の没落であった。以後七十年間、妻良は毒りんごを食べた白雪姫のように眠りつづけてしまった。(静岡県妻良)
誰一人知る人もない外泊の村へ坂をこしてゆくのはいくらか心細かった。それでも岬をまわって外泊を一目見た時、私の瞳は天地に一ミリずつ大きく開いたほどの素晴らしさに見とれた。(愛媛県外泊)