やがて明治時代になって北海道の開拓が本格化したときには、不可能とされた「稲作」は禁止された。米を作るという不確かな夢を見るよりも、欧米式の畑作や畜産を導入しようとしたのである。
しかし、禁止されても米を作りたいという開拓民たちの情熱はなくなることはなかった。中には、稲作を試みて逮捕された者もいるという。しかし、そうした中でも、人々は米作りへの挑戦をやめなかった。そして、明治六年(一八七三年)に初めて稲作に成功し、ついに北海道で稲作をすることが認められるのである。
ああ、北海道もそうだったのか!と思う。
なぜなら、これと全く同じことが数十年後の樺太でも繰り返されたからである。北海道よりもさらに寒冷な地で、それでも開拓農民たちは米を作ろうとした。それだけ、米と日本人のアイデンティティは深く結び付いていたのだ。
結局、樺太での稲作は試験的なものにとどまり、本格的な米作りは行われずに敗戦を迎えた。そして、戦後は樺太(南サハリン)が日本領でなくなったために、もう稲作が試みられることもなくなったのである。そこに歴史の皮肉を感じざるを得ない。
もし現代の最新技術を用いたら、はたしてサハリンでの稲作は可能なのだろうか?