有島武郎の歌碑。
「浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしき我を見いでけるかな」
1923(大正12)年4月に鳥取砂丘を訪れた際に詠んだ歌。
その年の6月に有島は女性記者と軽井沢で心中している。
有島武郎と与謝野晶子の歌碑。
右側の有島の歌は上に引いたもので、左の晶子の歌は
「沙丘踏みさびしき夢に与かれるわれと覚えて涙流るる」
1930(昭和5)年に砂丘を訪れて有島武郎を偲んだ歌とのこと。
甘やかに雨がわたしを濡らすとき森のどこかで鹿が目覚める
完全な剝製はなく手彩色版画の中を歩むドードー
人がみな上手に死んでゆく秋は小豆ことこと炊きたくなりぬ
清明をまずシーミーと読むときに移住七年目の青葉雨
あねったいという語に絡みつく暑さねっとり雨季が近づいてくる
「さけるチーズ」みたいに世界は引き裂かれ時が経つほど干涸びてゆく
「犬の耳」みな折り戻し愛犬を手放すように本を売りたり
思い出は画素の少ない方がいい大事なものは抜け落ちないから
島抜けの暗き歓び思うなり月に一度の東京出張
絶滅した鳥の卵の美しさ『世界の卵図鑑』のなかの
近現代の小説では、「説明するな、描写しろ」とよく言われる。「若さ」を表すのに、「若い」と書くのではなく、面皰(にきび)を描く。夏の暑さを描くのに、影の濃さを描く。
解釈が分かれることは悪いことではない。むしろ、様々な解釈ができるから小説は面白い。つまり小説においては、その出来事の解釈を書く側は一方的に決めない。解釈や価値判断を行うのは読者にゆだねる。
ただし、よく誤解されるように、読者はどんな勝手な読みをしてもいいということではない。テクストが完全に決定するわけでもないし、読者が完全に決定権を持っているわけでもない。あくまでもその中間である。
言うまでもないが、文章を読む力も書く力もどちらも大切である。文章がどのようになっているのかを理解すれば読む力も上がるし、書く力にもつながっていく。
文章は二次元でも三次元でもないから、順番を追って読んでいくしかない。このため、どういう順番で叙述していくかが、読み手にとって重要であるし、従って書き手にも重要だということになる。
玉鉾(たまほこ)のみちのく越えて見まほしき 蝦夷が千島の雪のあけぼの
我死なば焼くな埋めな新小田(にいおだ)に 捨ててぞ秋の熟(みの)りをば見よ
みちのくの尾駮の駒は和歌の題材であり、真澄はこの十年ばかり心にかけていました。いまその近くまでやってきたのですから、なによりもうれしかったのでした。
日記の中に和歌の多いのは、歌のやりとりがそのころの文化人の交際のしかたでもあったからでした。
1933年 26歳 ガリ版雑誌『口承文学』を編集刊行。短歌を詠む。
難船の荷物をひろいあげると、荷の持主から、一割のお礼がでることになっていました。そのために荷物をひろうことは海にそった村々のいい収入のひとつでした。
いまのようにべんりな郵便制度がない時代ですから、手紙は旅人などにことづけて、とどけてもらうしか方法がなかったのです。だからうまく相手のいる土地へいく人がいないと、一般の人はいつまでたっても手紙は送れなかったわけです。
ふりかえってみると、日本の辺地は、こうした国を愛し、また辺地の人々のしあわせをねがう多くの先覚者たちが、自分の苦労をいとわないであるきまわり、しらべ、ひろく一般の人にそのことをうったえて気づかせ、そこにすむ人の上に、明るい光がさしてくるようにつとめてくれたことによってすこしずつよくなって、今日のようにひらけてきたのです。
障害を、その人個人の責任とみるか、社会の責任とみるか、発想ひとつで、乗り越えるべきテーマや変革すべき社会のイメージが大きく変わってくることになります。
自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり、そのために他人や社会から支援を受けたからといって、そのことは、なんら自立を阻害する要素にはならない。
人は誰かを「支える」ことによって、逆に「支えられている」のです。
僕が意識したのが、本屋を「耕す」ことでした。農業の「耕す」と同じです。(・・・)一つは、お客さまとのコミュニケーション。積極的にお客さまと本をめぐる会話をして、お客さまとの関係を耕していく。(・・・)本が詰め込まれた棚も、常に手を加え変えていくことが「耕す」ことになります。
僕たちは、売れていない本もあえて在庫に入れるようなことをします。一年に一冊も動かなかったりするのですが、必ず入れる。なぜかというと、この一冊があることによって、横に広がっていくことがあるからです。この一冊を挟み込むことによって、横にある本の意味が変わってくる。
大きな本屋には、大きな本屋の役割があって、それは病院でいえば、総合病院なのです。まちの中核の大事な病院。一方で僕たちは、まち医者みたいなもの。でも、たまに救命救急もやりますというイメージでしょうか。
いつまでも、店頭からお客さまに本を届ける仕事をし続けるつもりでいたが、僕の手法は手間隙がかかりすぎてしまい、時代の流れに逆行するものになってしまっていたようだ。
昼ドラの刑事が背中を流しあい今日見た遺体について語らう
太代祐一
ぎんいろの冬の空気を吐き出してこれはわたしに戻らない息
魚谷真梨子
海蛇と珊瑚の沈むぬばたまの鞄をつよく抱く目黒線
北虎叡人
タッパーに詰められるもの詰めてきた ひじきラタトゥイユナムル
さばみそ 小松 岬
そうか、僕は怒りたかったのだ、ずっと。樹を切り倒すように話した。
田村穂隆
一つ空きしベッドの窓辺に集まりて患者三人雪を眺める
北乃まこと
ポケットに帽子の中に新しき言葉二歳は持ち帰りくる
宮野奈津子
きのふけふ食べて明日もまた食べむ三本百円の大根のため
岩野伸子
うぐひす餅埋めて抹茶の山々の陰るところと日の差すところ
清水良郎
夫婦には我慢が大事と言う人の口の形が姶良カルデラ
関野裕之
同じドアー並びてをればドアノブにぬひぐるみ吊す女性入居者
尾崎知子
ホットケーキの中なる仏 本心とはそもそも存在するのでしょうか
白水ま衣
真冬にはしろく固まるはちみつの、やさしさはなぜあとからわかる
小田桐夕
母にやや厳しい口調のわれだった 旅の写真の見えぬところで
山川仁帆
私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言つた事です。
(「夜の二人」)
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所(ここ)に住みにき
彼女も私も同じ様な造形美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまう。 (「智恵子の半生」)