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8月19日(日)、「塔」の全国大会の2日目は一般公開のシンポジウムです。どなたでも参加できますので、皆さんぜひお越しください。
・講演「前衛短歌を振り返る」 永田和宏
・鼎談「平成短歌を振り返る」 栗木京子・永田 淳・大森静佳
参加費は一般2000円、学生1000円です。
足場屋さん塗装屋さんに屋根屋さん床下さん来てわが家にぎはふ
吉田京子
日傘さす婦人を先に通したり誰もいなくなりアクセルを踏む
矢澤麻子
みどりいろの固き契りを裂くように二つに分ける蚊取り線香
和田かな子
リハビリに通ひ来し人九十五で焼死したりと娘が嘆く
西山千鶴子
始まりと終わりが混ざった朝五時の電車に始まるほうとして乗る
紫野 春
対岸に手を振る子ども池の辺はめぐりてかならず出会えるところ
森川たみ子
表札がはつきり読めるわが家のストリートビューに真夏の日差し
山縣みさを
じゃあこれで失礼しますとにこやかにこの世去りたし桜咲く日に
岩切久美子
義貞が幕府破りし戦場(いくさば)の分倍河原(ぶばいがはら)に
妻と落ち合ふ 小林信也
をみなごの家に帰れぬ大勢のひひな並ぶを遠く見て過ぐ
干田智子
友からのメール開ければ本人の訃報届きぬ嘘のようなり
吉田淳美
逢ひたいと思ふほどではないけれどセロリのやうな雨が降つてる
佐近田榮懿子
「ええ鮎が入つたさかい」と早口の女将は「ほなら」と電話切りたり
清水良郎
洲の草を喰みゐし春のヌートリアするすると尾ものこさず川へ
篠野 京
四十歳(よんじゅう)を過ぎたあたりで未来から過去へと時間の
流れがかわる 竹田伊波礼
・「ローマ字日記」私見
・「東海の歌」の定説をめぐって
・啄木と橘智恵子の場合
・詩への転換とその前後
・「不愉快な事件」と「覚書」について
・詩集「あこがれ」発刊について
・啄木負債の実額について
・啄木敗残の帰郷
・啄木釧路からの脱出とその主因
・金田一氏の文章論争
・「手が白く」の歌のモデル
・啄木筆跡の真偽について
私は日記形式を採用して自然主義的私小説を意図したのではないかと考えるのである。
家族つてかういふものか ふるさとの桃や葡萄はみんなまあるい
凍てついた滝のごとくにビルならび色とりどりの裸身を映す
簡単に土下座できるといふ君の鶏冠のごとき髪を撫でたし
それでもなほ海が好きだと言ふひとのくちびるだから荒く合はせる
君といふ果実をひとつ運ぶためハンドル握る北部海岸
ソドミーの罪の残れる街をゆく鞭打つごとき陽に灼かれつつ
無地、それもモノクロームのTシャツを湿らせながら坂駆けてくる
網戸とは夜の虫籠 一匹の蠅ゆくりなく囚はれてゐる
なにもかも打ち明けられてしんしんと母の瞳は雨を数へる
窮鼠われ猫を嚙まずに生きてきてふたり仲良くお茶飲んでゐる
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も
塚本邦雄『水葬物語』
兵役適齢期に戦争末期をすごし、呉の海軍工廠に勤めていたという伝説があるから、この「航空母艦」なども、作者の私的な回想がらみのものと思ってもわるくない。しかし、そういう解釈は今までなされたことはなかった。
揚雲雀くらき天心指しわれのむね芥子泥濕布(からしでいしつぷ)
が熱し 『日本人靈歌』
「大淀」も「利根」も沈める内海が記憶のなかに燦きやまず
島田修二『青夏』
レガッタのオールが揃ひて水を掻く春よ春よと誘ふやうに
雄・雌を0号絵筆で選り分けるサマータイムの始まる朝に
「maybeが好きね」と言はれ「maybe」と答ふ フランチェスカの
栗色の髪
行きましょう。と即答できず逸らしたる目線の先に鴎、降り立つ
抽象でも具象でもありうるのだとスタールが描くパン、その光
回想をするとき眼鏡をかける人、はずす人、目を閉じる人あり
うらうらと照る日かすめる沖べより舳(へ)さきおし並め舟きほひくる
大島の風早岬はるかなる潮路の涯ゆ追ひ迫るらし
三重(みへ)に張る網つぎつぎにしぼられて五百のいるか湾にひし
めく
冬凪ぎの海原とほく追はれきているかは啼けり低き鋭声に
蒼浪のうねりを越ゆる雌(め)いるかの姙(みごも)れる腹しろくつや
めく
浮きいでて苦しき息を衝ける背に鳶ぐち打ちて引き寄するなり
岩むらの上にのりあげ口吻(くちさき)に血を噴きてゐしそれも死に
たり
砂の上に切り据ゑられしいるかの首その幾つかは生きてあぎとふ
ひたすらに立ち働けるおほよそはわれより老いて頰骨さびしき
浜の火に濡れそぼつ身を寄せあひて屠りしのちの顏くらくゐる
肉削ぎしいるかの骨を背に負ひて夕べの浜を帰りゆく女
この「短歌日記」は遅くとも前日までに原稿を編集部に原則としてメールで届けることになっており、その点は苦労した。当日に見聞したことを短歌に詠むのではなく、計画や予定で前もって短歌を詠み、文章を書かざるを得なかったからである。
背の薪燃えてゐるとはつゆ知らぬ雑踏の中にわれもその一人
目薬をさしてしばしを目つむれるあひだ心神(しんしん)深くのうみつ
イハレビコ去りにけるのり残りたる芋幹木刀(いもがらぼくたう)と日向南瓜(ひうがかぼちや)よし
合ふはずと思へば合ひぬ宮崎のワインと根室の天然帆立貝
辞書見れば「ふち」には淵(ふち)と縁(ふち)とありあやふき「ふち」に行く人は行く
文華堂、大山成文館、田中書店 一軒も今は無くさびしきよ
刺し違ふるごとく間近を走りあふ電車のはらわたの中にゐる
食事中に箸おいてふと黙りこみ「時間」旅してをりし母の眼
老いるほど肌(はだへ)つやつやしてくるは人間ならず檳榔(びらう)樹の話
山のみづと海のみづとが恋しあひひとつになれる耳川河口
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍(たうもろこし)の焼くるにほひよ
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
確かに日記や書簡には啄木独特のある種の“粉飾”が施されている事があるのは事実である。
啄木が有名になり出すのは一般的には土岐哀果(善麿)の奔走で漸く出版された『啄木全集 全三巻』(新潮社版 一九一九・大正八年)あたりからで、この『全集』はたちまち三十九版を重ね、啄木の名は全国的に広まった。
啄木には困難な状況に陥ると決まって彼をその困窮から救ってくれる誰かが現れるから不思議である。
鞦韆(しうせん)に搖れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ
イエスは三十四にて果てにき乾葡萄嚙みつつ苦くおもふその年齒(とし)
獸園に父ら競ひて子に見しむうすKき創あまたある象
死者なれば君等は若くいつの日も重装の汗したたる兵士
湖水あふるるごとき音して隣室の年が春夜髪あらひゐる
昇降機下(お)りゆくなかにきくらげのごとうごかざる人間の耳
憂鬱なる母のたのしみ屑苺ひと日血の泡のごとく煮つめて
熱の中にわれはただよひ沖遠く素裸で螢烏賊獲る漁夫ら
處刑さるるごとき姿に髪あらふ少女、明らかにつづく戰後は
殺意ひめて生きつつ今日は從順に胸部寫眞を撮らるる梟首(けうしゆ)
貴族らは夕日を 火夫はひるがほを 少女はひとでを戀へり。海にて
戰争のたびに砂鐵をしたたらす暗き乳房のために禱るも
肉を買ふ金てのひらにわたる夜の運河にひらきKき花・花
銃身のやうな女に夜の明けるまで液状の火薬塡(つ)めゐき
みなとには雪ふりゆきのしたに住む少女が夕べ賣るあかき魚
少年の戀、かさねあふてのひらに光る忘れな草の種子など
密會のみちかへりくる少女らは夜を扇のやうに身につけ
遠方にあふれゐる湖(うみ)、むずかゆくひろがりてゆく背の薔薇疹
渇水期ちかづく湖(うみ)のほとりにて乳房重たくなる少女たち
てのひらの迷路の渦をさまよへるてんたう蟲の背の赤とK
水を恋ひ水を見に行く田植ゑまで少し間のある大潟村へ
蟹(キャンサー)のゐなくなりたる潮だまり月の夜にはさざ波が立つ
火のかたち見えねば寒いといふ祖母の部屋に置きたり朱のシクラメン
長靴のなかで脱げたる靴下のほにやらほにやらに耐へて雪掻く
一ファンとなりて生徒の名を叫ぶ九回の裏二死走者なし
聞こえくる雪解けの音新入生三十人が辞書を繰るとき
中骨をはづせば湯気のたちのぼる露寒(つゆさむ)の夜に焼くシマホッケ
一〇〇歳の祝賀に集ふ親族の笑みつつ生前葬の寂しさ
連結する列車のごとくキクキクと車が進む朝の雪道
東通(ひがしどほり)村を抜ければ六ヶ所村 産院・斎場並べるごとし
私はこれら諸家の『あこがれ』評(低い評価:松村注)に同意できない。
これら二篇の詩は、わが国の詩史上、注目すべき作品である。
明治期の短篇小説の中で、石川啄木の「天鵞絨」を珠玉の一篇として推すことを私は躊躇しない。
私は「鳥影」をすぐれた作品とは考えていないし、「雲は天才である」は未完結であり、かつ失敗作と考える。
石川啄木ほど誤解されている文学者は稀だろうと私は考えている。
でも冬は勇気のように来る季節迎えに行くよまぶしい駅へ
夜の底には精製糖が溜まるから見ていよう 目を閉じても見える
「花野まで」
音もなく道に降る雪眼窩とは神の親指の痕だというね
『行け広野へと』
死者の口座に今宵きらめきつつ落ちる半年分の預金利息よ
『行け広野へと』 以降
父はどうだったのだろう。道をそれた先に、「乳と蜜の流れる土地」はあったのだろうか。家族という組織は、その構成員だった私は、「乳と蜜のある土地」へ、父を導くことはできたのだろうか。
初句切れというのはある意味で何かを信じる気持ちの強さと関係がありそうだ。迷いや逡巡は初句切れの歌を生まない。あるいは心の奥に迷いがあっても、それを勢いよく捨て去ろうとする意志の力。
地下鉄サリン事件が起きた1995年、僕はテレビ番組をつくる仕事をしていました。当時大量のオウム特番が放映されましたが、描き方は2種類だけでした。「凶暴凶悪な集団」か「麻原に洗脳された集団」です。
オウム事件で、多くの人々は「普通でまじめに見える人々がなぜ巨大な犯罪をしたのか」という問いを突きつけられ、困惑していたのだと思います。だからこそ、オウムを「凶暴」「洗脳組織」と理解することで、本来の問いに向き合うことを回避していたのではないでしょうか。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
石川啄木『一握の砂』
のぼり来てひとり見下ろす函館のルビンの壺のような夜景を
「角川短歌」2018年2月号
おかあさん ぼくは ひとりだ 発作の夜背をなでいれば二歳は
言いぬ 丸本ふみ
ハム、チーズ、疲労、レタスを重ねたるサンドイッチをもそもそと食む
益田克行
選択はしているようでさせられる「えだ」は結局一本なのだ
みずおち豊
入口も出口も同じほうにあり春のこの世にバスは傾く
川上まなみ
亡きひとに来られなくなったひともいる昔の写真に記す名前を
森 祐子
冬晴れの朝は斜めに影伸びて静物となる福井のメロン
冨田織江
広辞苑丑の時参りマニュアルのように細かく説明のあり
谷 活恵
傾いた忠魂碑の立つ町営のグランドに今は桜の木なく
鳥ふさ子