今年も越前市の「万葉の里 あなたを想う恋の歌」の審査員を務めることになりました。7月1日から10月31日まで作品を募集中です。
http://www.manyounosato.com/
投稿料は無料(!)、最優秀賞は賞金10万円(!)、HPからの応募もできます。皆さん、ふるってご応募ください。
ちなみに、前回の最優秀作は
「コンゴより君を想ふ」とメールあり熱帯雨林の夜にいだかる
大下 香
でした。今年も良い歌と出会えますように。
「コンゴより君を想ふ」とメールあり熱帯雨林の夜にいだかる
大下 香
ちぎっては食べちぎっては食べるパン私の中に暴力がある
鈴木晴香
わが辞表受け取らざりし人なりき春一番の日に逝きたまふ
安永 明
ゆつくりと日のまはりゆく春の日に手紙を書けば手紙の来たり
福田恭子
過去からは逃げられないな まふたつの藍色のうつはに断面の
白 小田桐夕
県北のひとの会話にひと混じる「南の人」の不思議なひびき
浅野美紗子
ゆびさきにばんそうこうが見えている舞台衣装の女のひとの
高原さやか
あみだなに寝そべりあみのすきまからとろりと落ちてしまう
夕ぐれ 坂本清隆
窓にうつる自分の影とむかひあふ一列ありぬTSUTAYAの夜に
岡部かずみ
少し奥に切り株ひとつあつたはず 鳥の声して深くなる森
亀谷たま江
障泥烏賊(あふりいか)は一匹だけで泳ぎます 髪きられつつ
耳は聴きをり 谷口純子
籐椅子に眠りは徐々に滴りて指につめたいよどみとなりぬ
万造寺ようこ
何をなした人にはあらねど曾祖父の曾孫としての我だと思う
相原かろ
ちりとりの緑がいちばん鮮やかで桜の根もとに立てかけてあり
河原篤子
妻のなき父と夫のなき吾と桜紅葉の堤を歩く
吉川敬子
鍋、薬缶、かつて光っていたものを集めて磨く春が来たので
中山悦子
ドーナツの油でべたつく指の先舐めたる舌は口中に消ゆ
筑井悦子
つまり、「た―だ」「さ―ざ」「か―が」の間に成立している対応関係が成り立っているのは、「ぱ(pa)」と「ば(ba)」の間のほうなんですね。
「おんな」+「こころ」は「おんなごころ」で「こころ」が濁音化(連濁)するけど、「おんな」+「ことば」で「おんなごとば」になることはない。なぜだろう?という問いの答えは「ライマンの法則」とよばれています。
「タニシ」と発音した音声のなかにtanという音があるかを尋ねた場合は、日本語話者のほとんどはYESボタンを押さなかった一方、英語話者とフランス語話者は(…)YESと反応したと報告されています。
「日本語の授業で、「っ」ってどう習いましたか?」
「次の音の構えをしながら、つまりスタンバイしながら1拍分の長さをおくことです」
松村の評論は、一首のうちに描かれた〈われ〉以上に、その〈われ〉に課せられた「運命」や、そう書かざるを得なかった「作者」の「運命」を追ったものが多い。
松村は時に「行動を選択しない〈われ〉」を作中に描くことがある。
私は人より海外の空気を吸った方だと自負しているが、このサハリン行脚ほど金がかかった旅はない。(…)限られた5泊6日の時間の中で、すべてを回りきるには、自由がきく車のチャーターが必要になる。それも未舗装の砂利道をゆくので4WD車で。(…)そして、何より情報がない。
新潟から実家の富山までのお盆帰省に際して、「24時間で何km歩けるか」を実験した。強盗に襲われるなどして一文なしになったときに、とにかく歩いてでも空港にたどり着くために。いち生物として、自分のスペックは、いかほどなのか。人として、知っておかなければいけない基礎情報だと思った。
結局、僕が持っていたのは、出発する勢いと、諦めない信念と、そのふたつだけだった。そしてきっと、必要だったのはそれだけなんだろう。
社会のなかで多くの人々が人工知能の出した結果にいかに納得するか、というテーマもあると思います。
人間らしい安心感や安定感のある「美意識」を人工知能が持つのは、社会に受け入れられていく上で大事なことだと考えています。
ペンシルバニヤに命中したる直後にて空中魚雷の白き雷跡
(らいせき) 山口茂吉
ほふり得しレキシントンの轟きを自ら聞きて還りたる艦(ふね)
佐藤佐太郎
巨艦(おほきふね)ほふりはてむと身をもちて火炎に入りし
稚(わか)きますらを 高安やす子
戦はいづちと思へばせきあへぬ心となりて空を仰ぎつ
高安国世
今まさに艦勇ましく戦ふに灯火管制下二人の吾子は眠れり
高安和子
豆の種もちて帰化せし隠元の豆の子太り信濃花豆
魂はけふすすき野の空にゐたりしがうつし身いわし焼きをりわれは
台風は南大東島にありてわが庭の石榴すでに落せり
まな板を干せば無数の傷みえて去年より今年へ年改まる
窓の向うに梅の花二つ咲いてをり今朝こまやかにからだも動く
芭蕉より一茶に人気ありといふフランスにけふ初雪が降る
降り沈む雪は音なくにひがたの街たひらかになして更けたり
母を亡くしし人より届くかぶらずしその亡き母の賜ひしごとく
何ごともをはりはつひによからずと自らいひて深くうなづく
若きらにまじれば心はなやぐを連れだちて若きらは若き彼方へ
支那兵の死に浮く水を汲み上げてせつなけれども呑まねば
ならず 上原酉松
汝が父の遺骨迎ふるも知らずして汽車にゆるるを喜びをりぬ
伊藤さよ子
大方は米国製なる工作機の耐用期間をわが思ひ見つ
山本広治
吾が前に少年二人戦ひに死にゆくことを事もなげにいふ
寺田幸子
手垢つきし愛(かな)しき本はわが名書きて征かざる友にわか
ち与へぬ 玉井清文
そのことは、一般に“短歌革新”の担い手とされる二人の書き手が、一方は自身のマニフェストに「現代の非丈夫和歌を罵る」という副題を付け、もう一方は、『古今集』を尊んでいた過去の自分を悔やむ文脈で「あんな意気地のない女にばかされて」いた、と書き付けたのはなぜなのか、という問いとかかわっている。
古典和歌と近現代短歌とが、どのように繋がり、また断たれているのかを観察することによって、和歌と短歌とを、そして江戸期以前と明治期以降とを、共通の地平で考えることができるような「場所」を探りたい。
勝原晴希「和歌とは何か、短歌とは何か」
感慨を述べるのに適した長さである和歌形式は共同の〈気分〉を醸し出す力が強いため、ナショナリズムと必然的に結びつくように感じられるかも知れないが、両者の結びつきはそのときどきの社会の構造を介した偶発的なものである。
百川敬仁「勤皇志士和歌の史的位相」
新題歌は単にいわゆる旧派和歌なのではない。新・旧の接点に存在する和歌なのである。
小林幸夫「新題歌のイデオロギー」
それは換言すれば、ドラマという意識の欠如ということでもあった。ドラマは基本的に円環構造の思考からは発生しない。矢田部一人に限ったことではない。そもそもそれは日本にはない発想であった。
有光隆司「思想の時代―西洋の文学概念による短歌評価の問題」
喉仏持たずやさしき春の鳩からくりのごと空へ弾けつ
溶接の面(おもて)に闇は広がりて蛍の火には触れず 触れたし
生活に仕事がやがて混ざりゆく鉄芯入りの靴で外へと
聴力が先に捉えて振り返るヘリコプターに土踏まず見ゆ
移民の孫が移民を拒む寂しさの中でもうすぐ築かれる壁
歩きつつアップルパイを食べているpost-truthの時代の中で
流木の流れぬときも流木と呼ばれ半ばを埋もれてあり
森に行き人を殺して帰り来る子どもの話「ヘンゼルとグレーテル」
スタートを待つ一団に小さきが小さくなりて子の座りおり
月光をはじきてハクビシンとなる一瞬を見き動く気配の
ぶどうの皮をにゅっと出で来る挨拶のどこかで会った人なのだろう
月の夜を無蓋の貨車に運ばるる誰のいのちか桃の花盛り
大日本帝国連合艦隊司令長官搭乗機の展示されいるぐしゃぐしゃの翼
酔うほどに広くなりゆく卓上にしんと鋭き胡麻粒ひとつ
国をあげて造る古墳の葬列の二〇二〇年のこんにちは
赤い口あけて泣く子をあやしつつその子の父も赤い口ひらく
あなたとは遠くの場所を指す言葉 ゆうぐれ赤い鳥居を渡る
『駅へ』
欠詠の若きらをもはや頼まざり私にはもう時間がない
河野裕子『家』
欠詠してはいけません。一回欠詠するとズルズルと休み癖がついてしまい、短歌引きこもりになるから御用心。一首でもいい。日本語が並んでさえいればいいと思って出詠してください。ええカッコして、褒めてもらおうと思うから歌ができなくなるのですよ。駄作、凡作がいつのまにか作歌の元肥やしになってくれます。諦めてはあきません。